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狭義の歴史なるものは水のある場所から発生してくる。泉小太郎の伝説がそうであるように、安曇野の歴史は、”水と土“をめぐる歴史といっても過言ではない。


集落(水田)が成立するためには、川から大量の水を引いてこなければならない。

通常、川はその地域の最も低い場所を流れ、水を引くには、はるか上流の、少なくともその村より標高の高い地点からということになる。


日照り続きでも水が枯れないよう大きな水路を造れば、豪雨には、洪水を呼び寄せることにもなる。

自然の川でさえ水が潜ってしまうこの地で、枯れも溢[あふ]れもしない水路を築くことがいかに大変であったか。


ともあれ、ある川から一本の水路が築かれ、ひとつの小さな村が成立する。川にはまだ水があるので、別の村が水路を引く。さらに新しい村々が次々と水路を築いていく。


こうして一本の川に、その水が利用できる分だけ幾つかの集落が張りつく(図1)。

しかし、川の水量は刻々と変化する。特に夏の渇水時、上流で水を取ってしまえば、下流の村は生きてはいけない。右岸と左岸の対立も流血の惨事をともなった。

こうした調整、抗争をいくども繰り返しながら、ひとつの川を命の源とする水利共同体が長い時代をかけてできあがってきたのである(図2)。


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「命の水」(長野県豊科町教育委員会)より転載

つまり、集落とは、現代の団地やニュータウンのようにではなく、乏しい川の流れを、縒糸[よりいと]をほぐすようにして分け合い、時に奪い合い、あたかも古い樹木が自然との闘いを年輪に刻みながら育つがごとく、気の遠くなるような時間と労力、闘いを通してできあがってきたのである。


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「長野県土地改良史・二巻」より転載 04
資料:「平成9年度土地改良区運営実態調査」
(全国土地改良事業団体連合会)

そして、この最も困難な水利共同体の調整、管理を担ってきたのが、井掛[いがか]り、水利組合、現在の「土地改良区」。基本的に1000年以上同じ役割を果たしてきている集落の中核的組織である。

左記地図は、この地方の幹線水路を示している。さながら人体における血管、いわば動脈図。そして、例えば、四角で囲まれた部分を拡大すると、図3のごとくになる。


さらに、これらの水路から、毛細血管、あるいは末端神経のような細かい水路が張り巡らされ、安曇野の大地をくまなく潤している。

これらの水路図は現在のものであるが、基本的には江戸期以前のそれとほとんど変わりはない。


立田堰[りゅうだせぎ]、温堰[ぬるせぎ]、鳥羽堰[とばせぎ]、飯田堰[いいだせぎ]、田多井堰[たたいせぎ]*1……といった多くの水路が平安から鎌倉時代にかけて築かれている。そして、驚くべきことに、今もなお現役なのである。

この地の幹線水路がいかに長いかを示すデータがある(上表)。


この地方の農地1ヘクタールを潤す幹線水路の長さは、平均で124メートル(長野県全体の約1.2倍)。全国のそれは76メートルと半分に近い。

安曇野は、実に全国の倍近く水路が密集していることになる。


これらの堰に関する記録はあまりに少ない。しかし、このデータは、この地に生き死んでいった幾万という農民達の苦労を雄弁に物語っているといえよう。




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※画像クリックで拡大
幹線水路図

*1

堰(せき)とは、通常、水の取り入れ口を築くため川に設けられた仕切りのことをさす。この地方では、水路のこともひっくるめて「せぎ」と呼ぶ。


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