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現在の穂高町一帯には広大な原野が残されていた。

これらの横堰の総集編ともいえる拾ケ堰[じっかせぎ]が誕生するのは文化13年(1816)。

同じく奈良井川から水を取り、この大複合扇状地の中央を約570メートルの等高線に沿って横切り、約1000ヘクタールの水田を潤すという安曇野一の大水路である。


長さ約15キロメートル、勾配は約3000の1。


3キロメートル進んで1メートル下がるという勾配は、例えば槍ケ岳(標高3180メートル)の頂上が横に1メートルずれる程度の、ほとんど誤差に近い領域での処理である。いうまでもなく、近代的水準器や望遠鏡もない時代、鍬[くわ]やモッコだけによる手掘りの水路である。


しかも、この工事は着手から、わずか3ヵ月という驚異的な早さで完成されている。安曇野の冬は厳しい。春の訪れとともに工事を開始し、梅雨に入るまでに完成させねばならなかったのである。賦役[ふえき]者の人数は述べ6万7000人。


10に及ぶ村を潤すというので拾ケ堰と名づけられたという。


この偉業を成し遂げた功労者は数多いが、記憶されてしかるべきは、柏原[かしわら]村の庄屋・等々力[とどろき]孫一郎。彼は26年間にわたって土地を詳細に調べ上げ、反対派の暴漢に襲われながらも、松本藩への交渉を成立させている。この難事業の設計にあたったのが同村庄屋の中島輪兵衛(工事の詳しい記録を残している)と勘左衛門堰の大改修を成功させた堀金村の技術者・平倉六郎右衛門。さらに、この世紀のプロジェクトを理解し推進役となった松本藩土木掛[かかり]の青木新兵衛。


26年間という、ほとんど人の半生に及ぶ調査。

そして、3ヵ月という瞬[またた]く間の工事。


この拾ケ堰によって、安曇野は長野県下でも1、2位を競う米どころへと変貌したのである。無論、現在もこの堰は、大幹線水路として安曇野の田畑を潤し続けている。

「ここは下堀[しもほり]気楽に寝るに扇町[おうぎまち]では夜水[よみず]引く」(安曇節撰集より)。

下堀という集落は、扇町集落より下流にある。しかし、下堀は拾ケ堰の水が得られるようになり、立場が逆転してしまった(扇町は拾ケ堰より上に位置)。下堀には今も多くの土蔵が建ち並んでいる。


下の写真は、昭和23年の空撮(穂高町本郷あたり)。中央に流れているのが拾ケ堰である。受益地(堰より下)は整然とした水田が並んでいる。同じ土地でも水のある無しとでは、こうも違うものか。拾ケ堰の偉大さを如実に物語っている。


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ところで、奈良井川の水が、現在のような逆サイホン*1(川の底を通るパイプライン)ではなく、川幅1キロメートルに及ぶ梓川を横断するとはどういうことなのか。


仕掛けは単純極まりない。水の流れている個所を残して川を土俵[つちだわら]の土手で閉め切り、そのミオ筋を牛枠[うしわく]で塞[ふさ]ぐだけのものである(左図参照)。

したがって、ひとたび大雨で梓川が増水すれば、築いた土手も牛枠もすべて流されてしまう。


明治初期、松沢求策[きゅうさく]は、この拾ケ堰の堰守[せぎもり](庄屋クラスが務める管理人)であった。彼の日記によれば、ある日、梓川の洪水で堰が大破し、農民2700人が修理にあたったが、翌日もまた流されてしまったらしい。


また、横堰は、流れが緩やかなだけに土砂や水草が溜まりやすい。砂掘り、横掘り、口掘り……、住民の苦労は余人の想像の及ぶところではなかったであろう。松沢求策は、堰守を務めている間、雨の日も猛暑の日も、毎日15キロメートルの水路を往復したという。


これらの堰を造った人たちと同様、それを今日まで守り育ててきた人たちも、偉大というにふさわしい。


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拾ケ堰空撮



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農民の悲願であった川の底を通るコンクリート製の水路(逆サイホン)は大正九年に完成した。

わが国最初の大規模な工事であった。平成八年に大改修がなされている。

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