安曇野水土記
安曇野の遺産 変貌する安曇野 1000年の宿命と水土の変遷 拾ヶ堰の偉業 縦堰と横堰 集落の成立 消える川 海人・安曇族の里 安曇野の春
前の章へ
次の章へ














*1

水争いは解消したが、渇水時にはやはり下流が不利。「同情水」「下川分水」「下川番水」「どうまわり」「かけまわし」といった複雑な水利慣行はつい近年まで残っていた。

*2
頭首工とは、河川などから農業用水を用水路へ引き入れるための近代的施設(用水路の頭首に設置される工作物という意味)。梓川頭首工は、梓川の左右両岸にあった14の堰をひとつに統合させた、いわば松本平の水利の要である。

*3
松本市、塩尻市や安曇野の二市三町五村に及ぶ約10,700ヘクタールの大規模農業水利事業。発電ダムの建設、利水調整も行われ、安定した農業用水が確保された。梓川の水が烏川扇状地にも届き(19キロメートルの左岸幹線水路)、安曇野の水利施設の大半が近代的に改修。あわせて、末端施設整備等は県営灌漑排水事業によって整備された。





















*4

昔は温度計がなかったので、白馬岳や蝶ケ岳の残雪がつくる雪形(白馬や蝶の形)を見て、田植え時などのタイミングをはかった。



*5
大町市、松川村、堀金村、穂高町にまたがる公園。また、公園にアクセスする国道19号線からの連絡道路や松本糸魚川連絡道路も調査指定となっている。
1000年の宿命と水土の変遷
信州安曇野この地に生きた幾百万という農民の血と汗により、かつて不毛の大地だった安曇野は、見事な沃野へと生まれ変わった。しかし、この地が夏に雨の少ない気候であることは、昔も今も変わりない。

水は農民の命。水をめぐる調整は、村の生死をめぐる調整でもある。
下流の村は、時に上流村に対し金品や酒をふるまいながら、夏中、交渉を続けたという。

とりわけ、梓川では、真鳥羽堰、飯田堰といった平安以来の古い水路が多く、対岸の最上流部に別な藩の取水口があったこともあり、水利をめぐる権利は、上流・下流、右岸・左岸とも入り乱れて、江戸時代から複雑な確執を引きずっていた。

大正13年に起きた流血の惨事。
この年の夏は大変な日照りが続き、梓川扇状地の水田約1500ヘクタールが収穫皆無に近かったという。その不満が爆発したらしい。手に鎌や棒を持ち両岸に対峙した農民達は、投石や殴り合いを繰り返し、ついに多数の警官の出動となったのである。この事件が契機となって、昭和元年、「県営梓川農業水利改良事業」によって、ようやく左岸七堰、右岸七堰の取水口が一本に統合され、幹線水路工事や耕地整理が図られることとなった。

実に、平安時代から昭和まで約1000年に及ぶこの地の宿命に、ようやく終止符がうたれたのである*1

また、昭和25五年には「国営梓川農業水利事業」によって、梓川頭首工*2や導水路といった近代的農業土木が施され、安曇野の農村は次第に整備されていく。

農民の闘いは、水をめぐるものばかりではない。
尻無川である黒沢川扇状地一帯は、かつては鬱蒼[うっそう]とした赤松林の広がる藩有林(後に国有林)であったが、大正期、払下げ運動が成功し、実に12年をかけた開墾がなされている。その開墾地も、昭和の初期から10年近くをかけて闘った有名な小倉の小作争議(小作側の勝利)を生んでいる。

どうにか安曇野における農業の安定が見られるようになってきたのは、昭和40年に着工された「国営中信平[ちゅうしんだいら]農業水利事業*3」からといってもいいであろう。梓川上流に発電をともなったダムが建設され、各幹線水路とも改修。あわせて、この複合扇状地の頂点を結ぶ延長19キロメートルの大幹線も新設された。近代的農業土木が生んだ“安曇野最大の横堰”といってもいい。この新しい水路によって、水田への安定したかんがい用水の確保が可能になった。また、畑地かんがいのスプリンクラーにより、黒沢川の開墾地が広大なりんご園へと変貌した。

関係町村における農業生産額の推移

白馬岳、常念岳、蝶ケ岳……、北アルプスの雪形を農業歳時記*4とした安曇野の農業も、人馬作業から機械化作業へと変貌した。それにともない農業農村整備も、水利だけでなく作業の効率性を重視した農地の区画整備、広域農道整備等も実施されてきている。

また、近年、都市と農村の交流、農作業の体験・研修の場として、「梓水苑」「ファインビュー室山」「ほりで〜ゆ〜四季の郷」「ビレッジ安曇野」といった施設が整備され、地域の農産物の販売拠点として、「旬の味・ほりがね物産センター」や「三郷サラダ市」等も設営されてきている。あるいは、田園文化ゾーン「国営アルプスあづみの公園*5」等の整備も現在進行中である。これらの施設を通して、生産者と消費者が向き合い、お互いの意見を反映した農業へと変貌する兆[きざ]しが見えてきている。

かつての不毛の大地・安曇野の農村は見事な変貌を遂げたといってもいいであろう。

そして、現在、全国でも稀な農村景観を誇る観光地として、年々多くの客を集めている。
今、瀟洒[しょうしゃ]なペンションやレストランの建ち並ぶこの地から、かつての生死を賭けた水争いや堰守[せぎもり]の苦労を偲[しの]ぶのは難しい。

しかし、およそ1000年に及ぶ水土の宿命。そして、その後、わずか70余年の急激な進展 農業水利史を見る

それが何をもたらしつつあるのかも、私たちは知っておかねばならない。
 
ページの上へ 前の章へ次の章へ