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「真金[まがね]吹く」とは「吉備[きび]」に冠せられるいわば枕言葉である。真金とは良質な鉄のことをさし、「真金吹く」は製鉄、昔の製法であるタタラ製鉄を意味した。

岡山地方の古い国名である吉備、とりわけその北部である中国山地は古代から明治にいたるまで鉄の一大産地であった。


鋤[すき]、鍬[くわ]など鉄器の出現が古代の農業に果たした役割は計り知れない。また、鉄は神社の建築や古墳、かんがい水路の建設といった巨大土木をも可能にした。

この地には、全国第4位の規模を持つ造山[つくりやま]古墳をはじめ、古代吉備の遺跡が数多く残っている。「真金吹く吉備」と奈良時代の俗謡にも歌われた吉備勢力の強大さが想像できよう。


吉備の勢力はその後次第に分断され、壬申[じんしん]の乱(672年)の後、備前[びぜん]、備中[びっちゅう]、備後[びんご]、さらに美作[みまさか]と分かれてしまう。


さて、前述したように、この時代、今の岡山平野の大半は海の底だった。しかし、古代吉備からの真金吹き、つまり、タタラ製鉄がこの地に、1000年以上に及ぶ想像もつかない歴史をもたらすことになるのである。


タタラ製鉄とはかんな流しともいわれ、ふいごを使って薪炭を高温で燃やし、その上から砂鉄をふりかけて溶かすという原始的な製法である。6世紀頃、大陸から渡来してきたらしい。中国山地はその砂鉄が豊富であった。


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■タタラではないが、伐採によって荒れた山々(明治30年頃、総社市池田)

しかし、当然のことながら大量の木材がいる。「たたら1回で得られる大塊を2トンとすれば、砂鉄は24トン、木炭は28トン必要となる。木炭28トンのためには、薪は100トン近くを切らねばならなかった*1」という。


いったい、古代から近世にいたるまでに、中国山地でどれほどの鉄が生産されてきたのであろうか。


さらに、この地の干満差を生かした塩田(湖戸内は全国生産の8割を占めていた)、特産である備前焼、ともに大量の薪炭を要した。ともかくも膨大なエリアに及ぶ森林が、数百年にわたって伐採され続けてきたことに間違いはなかろう。


日本の平野の多くは、河川の沖積作用によってできたものであるが、この地方では、それが加速された。


同じ中国山地を背に持つ山陰地方でも、同様な現象が起きている。出雲では洪水で荒れ狂う川を物語る八岐大蛇[やまたのおろち]の伝説を生み、山からの土砂が島根半島を形成した*2


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■図3 岡山の三大河川
(「宇宙から見た日本の農業」農業環境技術研究所より)

備前、備中には、その中国山地に源を発する三本の大河、吉井川、旭川、高梁川[たかはし]が「瀬戸の穴海」に注ぎ込んでいる。

太古、それぞれの川は坂根[さかね]、玉柏[たまがし]、湛井[たたい]という地点で海に注いでいたという(図3)。

河口は、毎年毎年、南の方へと進展していった。


しかし、この地は山陰と異なり、瀬戸内海の奥部に位置しているため、干満の差が激しい*3

海に拡散した土砂が、日々の満干[みちひ]によって再び陸地近くまで運搬され、平坦な水中堆積を重ねる。やがて干潮時には干潟となって露出する。


タタラ製鉄が始まったとされる6世紀から戦国時代まで約1000年。藤戸海峡を歩いて渡れる程度にまで、干潟が発達していたことになる。


それまでに地元の土豪や農民による原始的な干拓が始まっていたことであろう。平安時代、すでに大安寺、鹿田庄[しかたのしょう](いずれも岡山市内)といった荘園名が見うけられる。

しかし、大掛かりな干拓がなされるのは、やはり戦国時代。築城の技術ともあいまってこの時代の土木の進歩は著しい。


備前を支配したのは戦国大名、宇喜多直家[うきたなおいえ]・秀家[ひでいえ]父子。宇喜多氏は岡山の地に城を築き、それまで備前の中心地であった福岡市[ふくおかのいち]*4などを移転する形で城下町を整備していった。

そして、秀家は天正9年(1581年)、早島の地に宇喜多堤といわれる潮止堤防を築き、その4年後、高梁川沿いにも酒津堤防などを完成させ、今の倉敷市北西部約450町歩(haにほぼ同じ。以下、haを使用)を開発したと記録にある。


さらに江戸期初頭、備中の松山藩によって倉敷の西部一帯が干拓されるに及んで、かつて海に浮かんでいた児島は遂に陸続きとなり、「瀬戸の穴海」は完全に児島湾と水島灘に分離されたのである。




※1・・・

桶谷繁雄『金属と人間の歴史』(講談社)


※2・・・

洪水で荒れ狂う河川が八岐大蛇の伝説と、また、斐伊川の土砂流出により陸続きとなった島根半島が国引きの神話と対応している。


※3・・・

干潮・満潮の潮位差は季節によって異なるが、平均約2m、最大で3.6m。


※4・・・

一遍上人絵伝にも描かれた中世の市。吉井川の洪水で流された。戦国大名の黒田官兵衛が備前福岡にちなんで、九州の博多を福岡と命名。


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