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干拓とは、ただ陸地化すればすむという単純なものではない。

そこに水が通わなければ生きた土地とはいえない。また、逆に水が溢れても困る。

日照りが続いても大雨が降っても、常にその土地にある水の量は一定の範囲を保っていなければならない。

とりわけ日本は水田の国。水田は利水と排水が自在でなければ用をなさない*1

ゆえに日本は今も、その水利網の緻密さにおいて世界一である。


干拓地は、山の細粒土が堆積しているため土地は肥沃である。古来、多くの干拓は水田化を目指したものであった。したがって、干拓地の造成においては、この利水と排水をどうするのかが昔から今にいたるまでの最大課題であり続けたのである。


永忠は、その干拓の功績もさることながら、用水や井堰の建設においてもサイホンや精巧な石の掛樋[かけひ](水路橋)など特筆すべき業績を残している*2


ムルデルは、この水田の特殊な水利用形態までは把握してなかったらしい。


川からの利水には限界がある。とりわけ、この地は瀬戸内特有の少雨地帯。吉井川、旭川、高梁川ともその水量に比して灌漑面積が広すぎた。新田開発のためには、古田の水利用に差し障りない新規の水を確保しなければならない。地下水を掘っても塩水しかでてこないのである。


永忠の後、幕末期まで岡山藩の干拓は滞っている。幕末に造成された興除新田は早くから計画されていたが、備中との領土争いや漁民の反対とともに、水の使用権をめぐってもなかなか折り合いがつかず、幕府にまで調停を依頼している。この新しい平野は、すでに水の利用が限界に達していたのであろう。


「上郷のものには牛にでも頭を下げろ」。干拓農民は農地の新参者であったが、それ以上に水利用の新参者であり、上流からの余り水をもらう立場であった。


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■図6 主要水系統略図

例えば、図6はこの地方の主要な水路を簡略化したものである。これだけでも水利用形態の複雑を示して余りあろう。


ほとんどが海抜ゼロメートル地帯。水の流れは東西南北入り乱れ、日によって西から東へ、東から西へと流れを変えるなど、余人の理解の及ぶところではない。さらに現地に足を踏み入れれば、幅広の水路が迷路のように無数に走っている。水路自体が貯水池の役割を果たしていたのである。


上述した興除新田の水は、当初、高梁川流域に水利権を持つ湛井[たたい]十二ヶ郷用水とその下流八ヶ郷用水*3の余り水を利用したものであったが、足りようもなかった。

興除村の農民は上流の排水を、丘を越え、自分達の村まで引いてきている。

その水路開作の最大の難所は、今、汗入[あせいり]という珍しい地名になっている丘陵地であった(写真参照)。その丘は固い岩盤でできていた。

用水の名も汗入。文字どおり、農民達の汗が大量に流れこんでいるからだという。


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  • ■左写真:汗入用水の開削(明治42年完成)と右写真:現在の汗入用水(同じ地点で撮影)

興除村ですらこのありさま、さらにその下流にできた藤田村の苦労は述べるまでもなかろう。藤田村の水は、突き上げ用水といって、満潮時、水位が上昇した河川から塩分濃度の低い表層水を利用するという極めて不安定なものであった。

生活用水も雨トイを利用した天水井戸。「水売り」という商売もあったという。

農民は、毎朝2時、3時に起床。足踏み水車を使った田への水入れ作業という重労働から1日が始まった。


しかし、この農民の不屈の魂が、後に岡山の繁栄をもたらすのである。


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■丙川三連樋門(旧藤田村)明治37年7月完成



※1・・・

排水が不良になった田のことを湿田という。無論、米のできは悪い。


※2・・・

倉安川(運河)の開削も大事業のひとつ。坂根用水における千町川の下を底樋でくくらせるというサイホン技術、田原用水では小野田川を横断する巨大な石造の掛樋(文化財として復元保存)、岩を種油で焼いて通したという百間の石の樋など、驚嘆すべき工事を行なっている。


※3・・・

湛井十二ケ郷用水は平安時代、八ケ郷用水は戦国時代の開削という古い歴史を持つ用水。


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