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岡山県といえば、今も倉敷紡績をはじめとする繊維産業で名高い。

岡山平野は、江戸時代から綿の代表的産地であった。これも干拓がもたらした一大財産である。

干拓は水田化が目的であったとはいえ、土地の塩分が抜けるのに数年を要した。綿は、その塩分に強い作物である。

砂地で排水の良かった玉島地区(倉敷市)の綿は、「玉島木綿」といわれて全国的な名声を博した。

白壁の街・倉敷の美しい景観もその高い文化の集積も、これらの富の賜物であろう。


また山陽道に位置し、交通の要衝[ようしょう]でもあったこの地は昔から商業的蓄積が多く、前述した農機具も、当時、岡山駅前から市役所までずらりと農機具の店が並んで活況を呈していた。


そして、明治以降、約5,500ha、およそ東京都の世田谷区に匹敵する土地が増えたわけである。

元禄時代、岡山の城下町の人口は約3万人。倉敷と合わせても5万人程度であったと言われている。現在は両市を合わせて100万人以上(20倍)。同じ期間における日本の総人口の伸びは約4倍、東京が約10倍である。

この干拓平野の躍進ぶりが理解できよう。


とりわけ、戦後の高度成長期は工場進出が著しかった。

水島コンビナートをはじめ大企業の工場群が干拓地に乱立。それに伴って、農地における新興住宅地としての蚕食[さんしょく]が進んだ。


瀬戸大橋、岡山新空港、吉備高原都市、総合流通センターといった大きなプロジェクトが打ちたてられ、世はまさに昭和の元禄時代とうたわれる空前の経済成長を迎える。


前兆は、すでに児島湾淡水化の数年後に起こっていた。

昭和36年、藤田地区の用水や児島湖に大量の魚が浮くという事態が発生。続いて、ウナギの大量死。昭和40年代に入ると、奇形の魚が現れ始め、児島湖の名産だったフナも市場価格は半値に落ちてしまう。

そして、同50年頃には、ホテイアオイ、アオコ、ウキクサ等が相次いで大発生。児島湖の水は、全国湖沼のワースト上位にランクされるようになった。


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■児島湖のゴミ 02
■児島湖の汚濁の原因(平成9年度COD75%値)

人口の増加や生活様式の変化によって、水質の悪化、ゴミの流入など、児島湖を取り巻く環境が悪化し、自然生態系に大きな打撃を与えてしまったのである。


社会にとってこれほど厄介な問題はなかろう。経済活動から生活様式まで、いわば人間の活動そのものがもたらした災いに他ならない(下グラフ参照)。


さらに厄介なことは、こうした汚濁物質(ヘドロ)が湖底に堆積することである。


幾万という人々の手によって築かれ、恒久の繁栄をもたらすかに思えたこの平野の礎[いしずえ]が、今、あろうことか、揺らぎ始めているのである。


吉備のタタラから約1500年、宇喜多堤から約400年、永忠から約300年、そして、藤田伝三郎から約100年。


私達の社会は、おそらく彼らが考えもしなかったであろう新たなる闘いの時代を迎えているのではなかろうか。


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■COD濃度の経年変化(75%値)

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