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終戦間もない1947年。全国民は一人の裁判官・山口良忠判事(東京地裁)の死亡ニュースに大きな衝撃を受けた。死因は栄養失調。自身が違法な米に関わっては被告を裁くことはできないとヤミ米を拒否しつづけた結果だった。療養のため郷里の佐賀へ帰る汽車の中でも、他人に迷惑がかかると横にならず姿勢を正していたという。10月12日、判事は法に殉[じゅん]じる形で33年の短い生涯を終えた。


佐賀人の“県民性”を語るとき、この山口良忠判事の行為は象徴的である。激烈な正義感とでも言おうか。

近代司法制度の創始者である江藤新平(明治政府の司法卿[しほうきょう])、法曹[ほうそう]界の頂点となった田中耕太郎を始め、佐賀出身者は司法官、会計検査官になるものが目立って多いという。

「佐賀人の勉学好き」とも言われる。大正12年の調査では、いわゆる国立大学や高専在学生では佐賀出身者が全国一多かったとある。


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これらを『葉隠[はがくれ]』*1の伝統とする人もいる。あるいは、最後の藩主であった鍋島閑叟[なべしまかんそう]の異常な教育熱のせいだと言う人もいる。当時、藩士の師弟は6、7歳になれば全員藩校へ通わされ、25、6歳でようやく卒業できた。しかも、その適齢になっても卒業できぬものは家禄の8割を召し上げてしまうという凄まじいものであった。*2


余談ながら、幕末、鍋島藩は薩長、幕府のいずれにも属さず、ひたすら西欧に対抗すべく兵器・軍艦等の充実に心血を注いでいた。「幕末、佐賀藩ほどモダンな藩はない。軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧の二流国なみに近代化されていたし、その工業能力も、アジアでもっともすぐれた『国』であったことはたしかである。」とある作家は書いている。*3

しかし、その実は、農民への過酷な重税、艦艇[かんてい]造りや反射炉の建設など汗も干からびるほど苛烈な労働、そして発狂者が出るほど厳しい勉学、つまるところ佐賀藩の悲壮なまでの国土防衛意識であった。勤皇・佐幕をめぐる幕末の政論など見向きもしていない。

慶應[けいおう]4年(明治元年)、鳥羽伏見の戦いの直後、肥前鍋島藩は強大な武力を官軍に委[ゆだ]ね、上野、東北、函館に及ぶその後の戦いで華々しい戦績を収めた。薩長土肥の“肥”は、軍事的には互角であった薩長土vs.幕府軍の戦い、つまり明治維新のキャスティング・ボードを握り、大政奉還の直後に官軍となったわけである。

さて、いずれにせよ、佐賀人の、こうした極度に肉質の締まった知的気風は、他のどの地域にも見られない特異なものであろう。同じ肥前であった長崎人は寛容で開放的な気質といわれている。また、同じ佐賀県内でも、唐津藩のあった玄界灘側は、商人の気風が強く、明るくて外交的らしい。*4


とすれば、巷間[こうかん]論議される佐賀の県民性とは、実は佐賀平野に固有のそれではなかろうか。少なくとも、この地の極めて特異な水土と無関係ではありえないはずである。


佐賀平野 ―――九州一の大河、筑紫次郎こと筑後川の下流右岸から嘉瀬川下流に広がる広大な平野である。


旧国名は肥前。“佐賀”の字は明治以降であるらしく以前は“佐嘉[さが]”を用いた。日本武尊[やまとたけるのみこと]の故事では“栄[さか]”とある。

肥、賀、嘉、栄、・・・いずれも佳字[かじ]である。吉野ヶ里の遺跡が示すように、この地は古代から現代にいたるまで文字どおり肥沃な土地でありつづけてきた。

この肥沃さは、紛[まご]うことなく有明海がもたらしたものであろう。


しかし、それだけでは、上で述べた特異な気質の説明にはなるまい。

天下の奇書『葉隠』や鍋島藩の異常なまでの教育熱、国土防衛意識・・・、それらを育んだ風土とはいったい何だったのか。


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佐賀平野 右端は筑後川



*1「武士道というは死ぬことと見つけたり」で始まる鍋島藩士・山本常朝の武士道論。鍋島論語ともいわれ、戦時下でもてはやされるなど、内容の是非は多くの論議を呼んだ。

*2その教育を受けた大隈重信は、後年、早稲田大学を創立する際、その反動からであろう、当時としては考えられないほど自由な教育風土を創り、それが早稲田の伝統的学風として今なお定着している。

*3司馬遼太郎『アームストロング砲』

*4武光誠『県民性の日本地図』、祖父江孝男『県民性』他、インターネットの県民性関連サイトより。




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