川上頭首工の建設予定地。
黒いラインがゲートの位置
 
北山ダム
(提供:いずれも水土里ネットさが土地)
佐賀平野の水土の知
佐賀平野の気質
有明海の造陸現象
特異な水土1
特異な水土2
鍋島藩家老 成富兵庫茂安
佐賀平野の生存基盤
成富兵庫の主な業績
佐賀段階と新佐賀段階
佐賀最大の資産
筑紫次郎と佐賀平野
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佐賀段階と新佐賀段階
第六章
江戸期を通じて、佐賀平野に目立った百姓一揆の記録はない。
これほど旱魃[かんばつ]と水害が繰り返される地域で一揆が起こらなかったというのも珍しい。ウンカの被害も大きかった。享保の飢饉[ききん](1732)では、人口のほぼ二割に相当する8万人が餓死したという。このときには諫早[いさはや]領で一揆らしきものが起こっているが、家老をはじめとする支配者層も加わっており、暴動もなく、一団は整然と長崎や大阪の奉行所へ訴えたという極めて珍しい例である。

菱摘み(江口辰五郎著
『佐賀平野の水と土』より転載)
 
踏み車
(提供:水土里ネットさが土地)
また、水争いの記録も少ない。村同士が鍬[くわ]や鎌を片手に戦い、洪水時には対岸の土手を壊しに行く、などという他の地では多く見られる水争いは文献で読む限りない。あっても、役所へ届け出て、法の裁きによって解決している例が多い。

「萬代不易[ばんだいふえき]の掟を致し置きぬ」と、“領分の儀”一切を任された成富兵庫茂安。彼のなした業績で最大のものは、水をめぐる社会秩序の形成と言っても過言ではなかろう。
水利の掟を破れば、自分の村はおろか、佐賀平野全体が滅亡の危機に瀕[ひん]する。そうした村落の死そのものを背負った厳格な“慣習=秩序”が、彼の時代に形成されたものと思える。
これは、英米法の基礎になっている“コモン・ロー”、あるいは“慣習法(カスタム・ロー)”の概念に近い。支配者が上から定める成文法ではなく、地面から生まれた民衆のための不文法。

少ない水を平野全体で薄く広く分け合い、溢れる洪水を平野全体で協力して排除する。こうしたまったく無駄肉のない耕地利用。自然の営みと社会の営みのギリギリの接点を操る術、いわばこの平野独自の「水土の知」というべきものが、幾世代にわたって形成され、継承されてきたことは確かであろう。

近代司法制度の創始者である江藤新平(彼は、当時、立法の知識では群を抜いており、改定律令を制定し、フランス法を訳した「民法草案」等の編集事業を推進している)。
また、西南戦争において敵味方の差別なく治療し、後の日本赤十字社を創った佐野常民[つねたみ]。
『葉隠』が説く武士道論も、ちょうど成富兵庫が活躍した時代を背景としている。
何よりも秩序と法を尊ぶ佐賀平野の気質が形成されたのは、この「水土の知」を通じてではなかろうか。

農作業は過酷であった。クリークの水は踏み車で田に入れなければならない。真夏の太陽が照りつける中での重労働である。
また、クリークは泥土が溜まるため、毎年、浚渫[しゅんせつ]しなければならない。すくい上げた泥土は農地の大切な肥料となった。
菱[ひし]摘みという作業は、女性の役割であった。たらい舟に乗り、クリークに繁殖した菱をひとつひとつ摘み取っていくのである(上写真参照)。

しかし、佐賀農民のこうした気質が、近代の土地改良事業で生かされぬはずはなかろう。
下グラフが示すように、明治36〜40年における佐賀平野の米の反収(一反当たりの収穫量)は、240kgの水準から一気に80kgも増えて、320kg台に上昇している。
近代的な技術体系を持つ明治農法、すなわち、多肥多収性品種の普及、金肥の増投、集約栽培法、乾田化と耕地整備事業などによってもたらされたものである。

資料)『佐賀県土地改良史』

さらに、第二の画期は、昭和10年前後。反収は400kg台にまで上昇している。特に昭和8年から10年にかけては、全国一の収量を上げるなど、佐賀の農業は、「佐賀段階」と呼ばれて全国の農村の指標となった。
この契機となったのは、全国的に普及した耕地整理(現在のほ場整備事業)と、踏み車による揚水という重労働から開放された“電気灌漑[かんがい]”であった。

ところが、戦時中、国土の放任により農地は荒廃していった。佐賀平野の生存基盤は、ほとんどが水田による水体系で構築されたも同然である。
何が起きたか ――― 言うまでもなく、災害に対する国土の抵抗力の著しい低下である。
昭和20〜29年にかけて連続して大きな被害が発生した。特に24年の大災害は流失埋没冠水[かんすい]田2.6万ha。26年は梅雨時の集中豪雨と盛夏期の大旱魃[かんばつ]。さらに28年の洪水は、死者行方不明520名という大惨事を引き起こしたのである。

折しも時代は戦後の経済復興期を迎え、食糧増産政策をきっかけに、この平野でも、国営嘉瀬川農業水利事業が着工されることとなった。
この事業は、嘉瀬川の上流北山に、有効貯水量2,200万m3という巨大な北山ダムを建設し、発電所を設けるとともに、佐賀平野1.1万haの水田を灌漑[かんがい]するというものである(昭和32年完成)。併せて、嘉瀬川下流の14ヵ所の取入れ口を統合する川上頭首工も建設され、国・県営事業により、佐賀市、佐賀郡、小城郡の1市9町の近代的水路網が完備した。

一方で、農民は、「新佐賀段階」を目指し、停滞していた稲作の技術改善に乗り出した。外国の農法などを取入れながら研究を重ね、遂に昭和40年、反収512kg、41年、542kgという驚異的な収量を上げ、2年続けて日本一の栄誉を獲得するに至ったのである。これは、この地で古くから培われてきた集落共同体的生産方法を土台とした集団統一栽培が花開いた結果であるとされている。



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