佐賀平野の水土の知
佐賀平野の気質
有明海の造陸現象
特異な水土1
特異な水土2
鍋島藩家老 成富兵庫茂安
佐賀平野の生存基盤
成富兵庫の主な業績
佐賀段階と新佐賀段階
佐賀最大の資産
筑紫次郎と佐賀平野
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筑紫次郎と佐賀平野
筑後川下流土地改良事業
さて、以上、佐賀平野に焦点を合わせて、その水土なりを記述してきた。
終章にきたが、実は、この冊子そのものは序論に過ぎない。

佐賀平野の西には白石平野が、さらに東には広大な筑後平野が広がっている。いずれも干拓によって形成された大地であり、クリーク、水害、水不足など、ほとんど同じような水土の歴史をたどってきている。

筑紫川下流土地改良事業
折しも「新佐賀段階」として米の収穫量で再び日本一の座に輝いた頃(昭和40年代初頭)、産業社会は、急激な工業化への転換がなされ、後に“世界の奇跡”と呼ばれた戦後の高度経済成長時代に入っていた。
他産業の急成長にあわせて、農業(経営)も近代化が推し進められることとなる。
不規則な淡水[あお]取水、網の目のように広がったクリークと不規則不整形な農地、クリークゆえの湛水被害、乾田化による用水不足、地盤沈下・・・、それらは佐賀、白石、筑後平野に共通した課題であり、いずれの地域でも生産力の拡大は限界に近づきつつあった。
昭和45年、農林省による直轄調査が開始され、昭和51年、国営筑後川下流土地改良事業がスタートした。

淡水[あお]取水を筑後大堰[おおぜき]上流地点での取水に切り替え、数十kmの導水路、総延長200kmに及ぶ幹線クリーク水路を築き、旧来の用水とあわせて筑後川下流平野、佐賀平野の農地にくまなく水を送り、さらに白石平野や多久盆地には嘉瀬川ダム(国土交通省)の水を送ろうとするものである。

成富兵庫が嘉瀬川を核にして佐賀平野の一元的な水利の体系化を図ったように、「筑後川下流土地改良事業」は、筑後川と嘉瀬川を核にして、この下流平野全域の水体系を新たに構築するという壮大な計画である。

整備前のクリーク
(提供:水土里ネットさが土地)
 
整備後のクリーク
その対象となる農地は、佐賀・福岡両県合わせて40市町村(9市30町1村)にまたがり、水資源開発公団の筑後川下流用水事業、国営佐賀中部総合農地防災事業、国営白石平野農業水利事業、県営かんがい排水事業、ほ場整備事業、干拓地等整備事業、市町や土地改良区(水土里[みどり]ネット)による土地改良総合整備事業、国土交通省の嘉瀬川ダム建設事業等の事業と相互に関連しつつ、一体的に進められている。
まさしく、筑後川下流平野の水土を一新する歴史的大事業である。

事業着手から4半世紀が過ぎようとする平成8年、遂に筑後川からの取水が始まり、新たな水との歴史がスタートした。
「干ばつの心配がなくなる」「いつでも水が使える」という喜びは、農業を知らない人々にとっては実感の伴わない、平凡かつ極めてささやかな事態に映るかもしれない。
しかし、その平凡かつ極めてささやかな喜びこそが、この広大な平野を創造[たがや]してきた幾百万という農民の歴史的悲願であったのではなかろうか。

さて、この壮大な計画もようやく終盤に近づきつつある。
成富兵庫の没後、370年が過ぎた。
いや、たかだか370年に過ぎない。
いま、私たちは、この筑紫次郎・筑後川と嘉瀬川、有明海、山と大地、そしてこの平野に生きとし生ける人間が織りなす悠久[ゆうきゅう]の歴史の真っ只中にいる。

筑後川下流地域における二十一世紀の“水土の知”――― 第一章は、これから始まるのである。




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