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昔の多布施川
(提供:水土里ネットさが土地)
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南部長恒著『疏導要書』(天保5年)に描かれた「石井樋」の絵図。 同著には、設備、効果、修繕方法などが細かく 記されている。(提供:水土里ネットさが土地)

成富兵庫茂安の業績は細かいものまで合わせると100を越えるという。

こと水に関しては、佐賀藩領下では彼の配慮の及ばぬものはないとも言われている。有名な石井樋[いしいび]の建設、佐賀江の改修、数々の用水路、堤防、干拓堤防、溜[た]め池・・・。

驚嘆すべき点は、これらの工事を単独に行ったのではなく、中小河川や原始クリーク、江湖などを巧妙に結び付け、平野全体で治水、利水、排水を処理するという広大な水利システムの一元化を図ったことである。

さらに、こうした整備だけでなく、上流下流、左岸右岸と広域的な調整を図り、村同士の利害の対立や、水利紛争を解決しながら、厳格な用水統制を敷[し]いてきた。


鍋島家が領主になったとはいえ、まだ当時は統治に屈しない旧勢力もいたし、かつて敵対していて油断のならない一族もいた。ことにこれらの土豪は農地、すなわち水系と強く結びついているため、佐賀一国を強固なものにするためには、一国圏としての水利秩序を確立せねばならなかった。

彼は、その天才的な土木センスに加え、気取らない性格と領民思いの施策を施し、かなりの人望を集めたらしい。いわば、水利を統制しながら、旧勢力や地生えの土豪たちを鍋島藩に吸収していったのである。


兵庫は鍋島直茂の侍大将としてめざましい武勲[ぶくん]を立て、加藤清正、藤堂高虎、福島正則、黒田長政らの諸侯から絶大なる信頼を得ていたという。言うまでもなく彼らは戦国諸侯の中でも特に農業土木、領国経営に秀でた大名達である。

すでに、武将であった当時から水土に関する様々な知恵を、あるいは領国経営のなんたるかを彼らに学んだに相違ない。


兵庫の工法には、信玄堤[しんげんづつみ]などの甲州流、利根川を制御した関東流(伊那流)、淀川治水の上方流など場所場所に応じて、幾つもの流派を併用したという。

『佐賀平野の水と土』を著した江口辰五郎博士は、京都との類似性を指摘している。角倉了以[すみのくらりょうい]による大阪と京都を結ぶ高瀬川の開削(佐賀江の運河)、桂川の取水技術(嘉瀬川の頭首工)、さらに淀川の水車(踏み車による灌漑)などである。


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在りし日の「石井樋」。中央が嘉瀬川本流と大井手(堰)。左上に伸びる島状の土手が「象の鼻」。
(提供:水土里ネットさが土地)

ここで、兵庫の代表的な業績と言われる嘉瀬川の「石井樋[いしいび]」について見てみよう。

嘉瀬川は、花崗岩山地である北山の峡谷から奔流して、おびただしい土砂を搬送しながら天井川をなし、たびたび堤防を決壊させる暴れ川であった。

彼は、かつて嘉瀬川の流路であった多布施[たぶせ]川に着目し、土砂を排除した上水のみを城下町まで引いてくる計画を立てた。


嘉瀬川本流に堰[せき](大井手)を設け、上流の川幅を広くして水勢を和らげる。さらに兵庫アラコで流心を導き、土砂を堰の前に沈殿させながら象の鼻、天狗の鼻といった曲部で流速を落として上水のみを多布施川に流入させるという巧妙な仕組みである。余水は岸川作水として農地に導いている。


今も嘉瀬川は上流部ほど広くなっており、洪水によって堰が破壊されないよう遊水池や竹林を設け、堤防も右岸を低くして、霞堤[かすみてい]の役割を持たせるなど、いわゆる氾濫治水工法を用いている。

この石井樋は、城下町用水としての役割が第一であったが、彼の工法の巧みさが嘉瀬川そのものの流れを安定させ、石井樋以外の13ヵ所の取水も可能となるなど、後世にいたるまで、佐賀平野に限りない恩恵を与え続けてきた。


この石井樋は、近代工事によって役割を終える昭和まで、実に333年間、現役であり続けた。日本土木史上の傑作といわれる所以[ゆえん]である。

これは兵庫の業績のほんの一例に過ぎない。彼の仕事には、随所にこうした独創的な工夫が見られる。

そして、特筆すべきは、こうした施設を造るたび、関係する村々に番水[ばんすい]の順序、時間、使用料など厳格な用水統制を敷いていったことである。


自然の力に逆らわぬ工法とそれを維持管理する人間の厳しい秩序。いわば水土に関する人間の「知」の育成と継承こそが彼の業績を数百年間も現役たらしめた最大の要因ではなかろうか。




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