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01

平成元年、吉野ヶ里遺跡発掘のニュースが流れ、全国に大きな話題を巻き起こした。宮室跡や巨大な物見やぐら、25haという全国最大の規模をもつ大環濠[かんごう]集落(推定延長25kmの壕)など、そのスケールの大きさは魏志倭人[ぎしわじん]伝に書かれた「邪馬[やま]台国」を髣髴[ほうふつ]とさせるものであった。


しかし、ここを訪れた人は不思議に思うに違いない。遠くは中国、日本でもかなり広い範囲の交易がなされていたことを示す品が数多く出土している。当然、有明海を利用した海洋貿易である。それならば何故、このような佐賀平野の奥地、むしろ山に近いところに集落ができたのか?徐福[じょふく]伝説※1で知られる金立[きんりゅう]神社も吉野ヶ里の真西、脊振[せふり]山地の麓にある。

海岸線からは、およそ20km、筑後川からでも8kmは隔たっている。海の産物を食べなかったわけでもあるまい。遺跡からは牡蠣[かき]の殻も多く見つかっている。何故もっと海のそばに造らなかったのかと。


弥生時代、はるかに温暖であったせいか海水面は今よりも5m程高かったと言われている。この平野の海抜4~5mの線を結ぶと図1のようになる。そして、この線上に多くの貝塚が見つかっている。

吉野ヶ里の大集落は、まさにこの海岸線に位置していたわけである。


02

北側は脊振山の高い山々に守られ(台風では防風の役目も果たす)、目の前は巨大な入り江ともいえる有明海(外海に比べて静かな波)。南方から稲作が伝わったとすれば、この地に定着しないはずがない。


さて、この図をご覧になった読者は、また不思議な思いにとらわれはしないだろうか。平均満潮位2.66mの線より南の部分、平野の約3分の1は、海の水に浸かるはずである。


図2で分かるように、今でこそ7.5mの高い堤防が取り巻いてはいるが、昔、例えば江戸時代、この平野はどうなっていたのだろうか。

平均干潮位はマイナス1.89m。満潮位との差は5.55m。時に、干満の差は最大6mに達するという。もちろん、これほどの干満差は国内でも類がない。


有明海は、巨大な湾とも言うべき海であるが、その入り口は島原半島の先端で約4.4kmという極端な狭窄[きょうさく]部となっている。そこから最奥部の住之江まで奥行きは約90km。4時間毎に起こる湾内の海水自動振動と12時間毎に起こる湾外の潮位の振動とが共鳴して、極端な干満差を発生させる。


一方で、九州最大の河川・筑後川は、阿蘇山の火山灰を大量に含む山からの土砂を有明海に運び込む。微細な浮泥は海水のNaイオンの作用でコロイド状になって、満潮時には沿岸に、干潮時には沖合まで運ばれて、薄く広く堆積する。

この運動が1日2回繰り返されることによって、次第に広大な干潟が形成されていく。過去何千年と繰り返されてきた自然の造陸現象。

現在も、沖合まで7kmという広大な干潟が広がっている。筑後川河口付近では、1年間に約10m(干潟の上昇は7cm)の割合で、海岸線が有明海に向かって成長しつづけているという。




*1 紀元前三世紀、秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて徐福を日本に派遣したと『史記』にある。徐福伝説は各地にあるが、佐賀では金立神社、諸富町、武雄市等が知られている。



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