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01
中村哲著
『医者、用水路を拓く』
(石風社2007年)
ここに一冊の本がある。

アフガン難民の治療に従事してきた現役の医師が、白衣を脱いで用水路の建設に挑んだ記録である。英雄とは何かを伝えて余りある感動の書物と言えよう。

医師の名はドクター・サーブ(先生様の意)こと中村哲*1、61歳。


パキスタン・アフガニスタンの農村で医療を続けてきたドクターは、2000年以降、打ち続く先進国の爆撃と餓死者百万人と言われる大干ばつの中、難民のため1,600に及ぶ井戸を掘り、それでも救えないと見るや、砂漠と化している2,000haの農地に水を運ぶため、自力で水路を掘り始めたのである。

無論、水路や土木に関する知識は皆無、苦手な数学は高校の教科書から始めたという。 オンボロ重機と中古トラックだけが頼りの素人集団。無知から来る様々な失敗、難関に次ぐ難関を乗り越えて、ついに延長13kmの水路開削に成功、16年間も水が絶えていた荒地を緑の沃野に変えたのである。

02
蛇籠によって組まれた取水口と用水路。
入口には日本古来の水制工・聖牛も見える。
水路造りで、最も参考になったのは日本の古い水利施設であったという。医師は帰国するたび通潤橋や山田堰、加藤清正の造った水路などに学び、先人の知恵の奥深さ、技術の確かさに驚嘆し、現地に帰って応用するという繰り返しであった。

斜め堰、柳枝工、蛇籠、鼻ぐり井出*2……、奇しくも一人の医師の手によって我が国伝統の農業土木技術がはるか海を越え、21世紀に中近東の山中でよみがえることになる*3。

2007年4月。ついに川の水はこの水路をつたって、怒涛の飛沫を上げながら砂漠に流れ込む。アフガンの農民は狂喜乱舞。この日ばかりは爆撃音ではなく、感涙にむせびながら叫ぶ声が山河にこだました。「ゼンダバード!ゼンダバード! (万歳)」。

ドクター・サーブはこの水路一本で何万人もの命を救うことになった。神に代わって起こした奇跡と言っても過言ではあるまい。

百の診療所より一本の用水路を ――これが彼らの合言葉であった。中村医師の20余年に及ぶ現地医療の経験から得た究極の哲理であったに相違ない。

それにしても、これほど見事に用水の本質を言い当てた言葉が他にあるだろうか。


宮田用水の400年を振り返るにあたって、以上の話を前振りとしておく。

03
取水口に集まった現地の作業スタッフ。
施設の護岸はすべて蛇籠。
手作りの蛇籠は縦に並べれば3万メートルに及んだという。

04
用水路と蘇った農地。
写真のように農地に緑の作物が生育するのは、実に20年ぶりであった。



*1

1946年福岡市生。九州大学医学部卒業。国内の病院勤務を経て1984年パキスタンに赴任し、アフガン難民のため診療所、後に基地病院も設立。2000年以降、大干ばつのため井戸掘りを開始、2003年から灌漑水利計画に着手。年間診療数約8万人。『医者井戸を掘る』(石風社2001年)など著書多数。


*2

「鼻ぐり井出」とは加藤清正の考案とされる水路。用水路を仕切った壁の底部に穴を開けて流速を高め、阿蘇特有の火山灰土が底に溜まるのを防いでいる。中村医師も水路に大量の砂が入るのに悩んで加藤清正式の沈砂池を造った。


*3

中村医師は、この書の「あとがき」を次の言葉で結んでいる。「用水路建設にあたっては、環境問題、河川を考える専門家の方々はもちろん、かつて日本の農業土木を支えて今に伝える数百年前の先人たちにも、敬意と感謝を捧げたいと思います」。

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