左は宮田用水、およびその灌漑区域を示す図面(昭和18年作成)である。
この時代になると木曽川の取水口付近は川島村(現各務原市)という大きな中洲になっているが、明治24年の実測図では宮田杁あたりの木曽川はレース状に乱流し、30を越える中州の島ができている。この付近は扇状地の中央に位置しており、河道・河床・河心が最も変わりやすい場所であったことを示している。
宮田用水の歴史は、杁の移転、修繕、改良の連続であった。
慶長13年(1608)に始まる般若用水の杁は、寛永11年(1634)に洪水で流され、40間(約70m)ほど上流へ移動。しかし、元文5年(1740)に杁の前に砂が溜まり通水不能となり、木津用水から水路を築いて分水した。
さらに寛政2年(1790)に宮田東杁の下流に河野杁を築造し、これを時之島村まで新水路でつなげている(新般若用水)。
また、大野杁に始まる大江用水では、1617年に大野を元杁とする奥村用水が造られたが、この元杁も80年後には大江用水からの分水路となった。
大野杁は寛永5年(1628)に堆砂で通水不能となり、新たに宮田杁を築造して大江用水につなげた。しかし、水量の不足から寛永19年(1642)東側に宮田東杁を増設し、二幅の取水口となった(図1参照)。
こうした杁の移動や改築に加えて、地域内における水利施設の改修や管理も大変であった。
『寛文覚書』(一六七〇年代)によれば、宮田用水は335村、水利施設2,170箇所、水路に架かる橋は747を数えている。いずれも10年弱に1回の修繕が必要であった。
これらの水路は時代とともに分水、あるいは延長され、1648年に造られた木津用水とともに広大な尾張平野をくまなく潤していた。
また、現在の名古屋市港区南陽町や海部郡蟹江町などは尾張藩の干拓(約5千ha)によって誕生した土地であり、「福田新田」「茶屋新田」などの水も宮田用水を利用したものである。いわば、宮田用水はこれらの広大な土地をも生み出したことになる。
取水口の移動は近代になってからも治まらず、昭和12年に5km上流に草井樋門*3を、さらに同17年には2.4km上流に小渕樋門を増設している。