この平野には、近年の圃場整備が行われるまでは見事な条里制水田が残っていた。現在でも農村部には珍しく道は碁盤の目状となっている。地名にも一の坪、五坪、口分田、十里、七条など条里制に由来する地名が多く残り、集落境もその名残が見られる。
平安中期頃にはほとんど水田化されていたことが分かる。
ところが、こうした条件の良い平野は、新田開発がどんどん進み、水が足りなくなるという現象がおきやすい。これは日本全国、どの平野にも当てはまる新田開発の矛盾であった。
しかも、近江は山が浅く川も短い。通常、川から安定的な水量を得るには、その川の水を利用している水田面積の10~20倍の流域面積が必要とされている。
しかし、湖北平野の水田面積約5000haに対して、平野を潤す草野川、高時川、余呉川の全流域面積は250km²。わずか5倍程度にすぎない。水が足りなくなるのは必然であった。
加えて、この地の古代豪族は、昭和時代まで続く置き土産を残した。たたら製鉄にともなう山林からの土砂流出である。
「たたら1回で得られる大塊を2トンとすれば、砂鉄は24トン、木炭は28トン必要となる。木炭28トンのためには、薪は100トン近くを切らねばならなかった*1」。「鉄一升に薪二俵」ともいう。ちょっとした量の鉄をつくるためにはひと山ふた山の木がいるらしい。おそらくは古代、たたら製鉄の周りはほとんど禿山になったであろう。
しかも、むき出しになった山肌は風化しやすい花崗岩。この湖北平野に流れ込む川には、雨とともに大量の土砂が流出したはずである。
そのため川の底はだんだん高くなり、洪水がおきやすくなる。洪水を防ぐため人々は川の周りに土手を築くが、さらに流れてきた土砂が川の底を高くし、また人々はより高い堤防を築くといった繰り返しで、川はだんだん平地より高いところを流れるようになる。これが琵琶湖周辺によく見られる天井川である。
一大製鉄地帯であった瀬田丘陵地から流れてくる草津川では川の下を国道一号線や東海道本線が潜るという極端な天井川となっている。
似たような事態は、金糞山の北側、越前平野でも起こっている*2。越前平野を流れる九頭竜川、足羽川、日野川の三河川はいずれも天井川である。
天井川は下流ほど河床が高くなり、洪水が起きやすくなる。ここに堰を築き、水を引くことは容易ではない。必然的に堰は上流の条件のよい地点へと集まり、「水論」が起きる。
後に述べる高時川の水争いには、こうした宿命的要因があった。
そしてさらに、河川への土砂の流出は、この地方で「瀬切れ」と呼ばれる厄介な現象を引き起こす。
川床は花崗岩を母岩とする粒の粗い砂礫であるため、夏にすこし日照りが続くと川の水が潜ってしまう。それでなくとも用水に不足する川の水が消えてしまうのである。
長年にわたって農民を苦しめ続けてきたのが、この「瀬切れ」であった。
平野上流部の水田ならともかく当時の土木技術の水準からすれば、下流の水田にまで行き届く水路が造られていたとは考えにくい。おそらく、定められた寸法で平野を区画して与えただけの口分田であったに相違ない。
いずれにせよ、流域面積は増えないまま、したがって川の水量は変わらないまま平野だけが広がっていったわけである。湿田であろうが水が足りなかろうが、条里制水田は隅々まで施され、農民には重税がかけられていった。
古代においてこの平野は地形、立地、気象とも農業条件としては理想的であった。そして砂鉄が豊富であり、多くの豪族が跋扈し、豊かな財と文化を築き上げた。
※1…桶谷繁雄『金属と人間の歴史』講談社(1965)
※2…越前平野は大湖沼地帯であり、継体天皇が三国を切り開いたという伝説を残している。その後、日野川や九頭竜川からの土砂が平野を埋めたという。
※ページ上部イメージ写真 : 内藤又一郎写真集『消えたハンノキの里-懐かしの田んぼの風景-』より