「せせらぎ長者」の話は何やらおとぎ噺のようだが実在の豪農らしく、中野(虎姫町)では長者の遺功を称える大きな石碑が建っている。長者は餅の井を中野まで開削すべく私費を投じ、村中総出で完成させた。しかし、地形上の無理もあり水は流れてこなかった。長者の落胆と村人の怒りを目にした娘は、再度の奮起を図るため神に祈り、その身を村人の掘った水路の深みに投じたという。娘の死に感じた村人は猛然と立ち上がり、ついに中野まで水を流す水路が完成した。
ところが、完成の前夜、神に感謝した長者はこの水路の守護神となることを願って自らの腹を割く。続いて長者の夫人も餅の井の守護神となることを祈って池に身を投げたという。娘の死に際して餅を供えた場所(餅の井の由来という)には井明神社が建てられ、今も毎年、長者祭りが行なわれている。
美談や抗争だけでなく、水不足を乗り切る農民の知恵や工夫も無論あった。高時川下流部のびわ町(現長浜市)にあった6つの村を潤す「御料所井」は、浅井久政の文書にも出てくる古い用水であるが、「底樋」という特殊な構造を持つ取水施設であった。
前述したようにこの平野は夏になると川の水が潜ってしまう。底樋とは図のように、丸太で巨大な箱を造り川の底に埋めてしまうものであった。川に潜った伏流水がこの底樋に染みこんでくるので、それを一ヶ所の出口から導水し、堤防の下のトンネルを通って引いてくる。
この底樋の長さは、43m(後に54mに延長)もあったと記録されている。湖北町馬渡付近にあった「八木井」もこの底樋であった。また、長浜にあった「一の堤」の底樋は長さ120mという巨大なもので、述べ13,000人の手によって造られたという。
これらの底樋の上には鳥居が建てられていた。底樋だけでなく井堰の傍らには鳥居、あるいは社があった。農民にとっての水は信仰の対象でもあったのである。
余呉川は山の林相も良く、渇水はそれほど起こらなかった。それよりもむしろ湿田と洪水に悩まされた。平野の最北部は3方を山で囲まれ、盆地のような形状になっている。
とりわけ、西野地区はむかし湖があったところであり土地が低い。大雨のたびに湛水被害を受けていた。当地充満寺の住職であった西野恵荘という僧侶を中心とした西野の村人たちは私財をなげうって、一八四〇年から六年の歳月をかけて琵琶湖へ流す放水路を掘りぬいている。トンネルは高さ2m、幅1.5m、長さ225m。ノミ1本での所業であった。このため近江の「青の洞門」とも呼ばれ、湖北の名所のひとつともなっている。
こうした水をめぐる苦難に加え、農民は領主の容赦ない重税の義務に喘いできたのである。
時は移り、世は明治を迎える。
しかし、人の世の制度がいかに変われど、地形、自然の摂理、農の営みが変わろうはずもない。
いくら社会構造が変わっても、農民は頑なまでにその営みを続け、かつて先人が猛火の中から救い出した観音像への信仰を守り続けてゆく。
水不足に加え、湿田や冬の積雪のため二毛作のできないこの平野では、現金の収入源として昔から養蚕業が営まれてきた。楽器糸として名高い大音、西山の生糸の歴史は1200年以上にさかのぼる。
製糸は近代日本の基幹産業となり、明治以降、この地の養蚕業は急激な発展を見せる。ことに浜ちりめんの製造は、湖北を代表する産業となった。昭和25年における湖北の桑畑面積は県全体の86%、特に東浅井郡だけでも50%を超えていた。
耕耘機で知られるヤンマーディーゼルの創始者は高月町出身の山岡孫吉である。製造工場の拠点を郷里におき、湖北地方で農村家庭工場を展開するなど地元に尽くした。
現在の、電気、精密機械、化学など湖北における工業の発達はこうした素地の上に築かれたものであろう。
しかし、大きな打撃となったのは高度経済成長期後半に始まる繊維産業の衰退であった。それまでの湖北の工業は繊維産業が40%を占めるなど、工業と農業は密接に結びついていた。しかし、桑畑は、昭和50年には以前の4割にまで減少したのである。