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01
 古庄の水神、岩脇の水神、西園の水神、上中の水神、野神の水神、明見の水神、古毛の水神、持井の水神、西原の水神、北大京原の水神、飛龍神社、八幡神社、羽ノ浦神社、辰巳の水神、横見の水神、青龍神社、南大京原の水神、小田の水神、下大野の水神、柳島の水神、惣蔵神社、水天宮、清松の水神、久留米田の水神、林崎の水神、龍王神社……。

 いったいこの川にはどれだけの水神が祀ってあるのだろうか?

これらの小さな祠は簡素な造りながら、今なお祭日には農を営む人の祈りが絶えない。

人柱の伝説が語り継がれてきた野神の水神社。昭和の工事では伝説どおり古い人骨が発見されたという。岩脇・古庄の水神社の祭日には花火大会が催され、那賀川の土手は大勢の人で賑わう。両神社が祀られた大井手堰跡の碑文にはこうある。


 「多年、川北の美田を育成して来た大井手堰も、今や功成り名を遂げ千古の歴史を秘めて永久に地下に眠らんとす。川北住民は惆悵(落胆の意)として恰も慈母の死を見るの如く哀惜の情、禁じ難し」(一部意訳)

水路の統合によって旧堰が廃止された。それを母の死と悼む心根の優しさ、堰への慈しみ。今なお花火をあげて先人の遺徳を偲ぶというこの川に棲む農民たちの想い。

驚くべきことにこの平野は、江戸初期まで上の図のように、いくつもの流路が交差する一大氾濫原であったらしい。


02
 石を運んで川を堰き止め、水を引き、ときに荒れ狂う濁流の中で土手を築き、激流に赤子を失いながらもそれに耐え、農民たちは水を分かちあい、時に死者が出るほどの争いを繰り返しながら、この平野で生きてきた人々は、荒れ狂う大河を制し、見事なまでの沃野に育てあげてきた。

天は大地を与え給うた。

しかし、紛うことなくこの平野は、そして那賀川は、農民たちの手によってつくられてきたのである。


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