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さて、粗々ながら、那賀川平野の「農」の歴史を振り返ってきた。

この平野が四国一の米どころに変貌することなど、江戸期や明治の人々にはたして想像できたであろうか。


 こうした見事なまでの変貌は確かに明治から昭和にかけて行われた近代的な基盤整備のおかげもあろう。この平野を幾度となく襲い多くの人命を奪った那賀川の洪水も、この土地の土を肥沃なものにしてくれた。

しかし、江戸時代、この平野に生涯を捧げてきた多くの農民たちの献身的犠牲なくして、ここまでの躍進が可能であっただろうか。

とりわけ、広瀬用水を造った佐藤良左衛門の話は、今も私たちの胸を打つ。水に苦しむ農民の姿を見かねた良左衛門は水路の開削を決意。二〇年近い歳月をかけて広瀬用水を完成させる。しかし、藩の許可なく造ったために、良左衛門以下10数名が牢屋に入れられ、良左衛門は無許可工事を黙認してくれた郡奉行に災いが及ぶのを恐れ、責任を一身に背負って獄中で服毒自殺したという。

また、北岸一帯を潤してきた大規模用水・大井手堰を造ったのは良左衛門の祖父である。困難を極めた工事に娘が人柱を申し出る。村人の制止にもかかわらず、娘は村の幸せを祈って棺に横たわった。いざ埋める間際、藩の使者から、娘の代わりに埋る仏像が届けられる。涙を流しながら村人は石に凡字を刻み、仏像ととも埋めた。石の数は1,080個に及んだという。


 私たちは、言うまでもなく歴史の恩恵の上に生きている。

地域にとって真の資産とは何であろうか。

農場の主な生産物は人間である――アメリカ人の言葉だが、農地は何よりも人を育てるという意味である。

ならば、この地では人が川を育て、川が人を育ててきたに違いない。この平野は先人によって造られ、その平野がこの地の人々を育ててきたのである。そして健全な「農」こそが、健全なる子供たちを育てるに違いない。この那賀川こそが、そしてこの平野で営まれる「農」こそが真の資産と言えるのではなかろうか。


 しかし、「農」の持続は農家だけの問題ではなくなってきた。平野全体で取り組まなければならない時代を迎えている。

私たちは歴史の真っ只中にいる。無論のことながら那賀川平野の歴史も未来へ続く。

化石資源に支えられた今の経済もやがては終わりを迎えるであろう。その頃、那賀川という資産の真の価値が今よりもはるかに切実に問われるのではなかろうか。


水神に祈りたい。

この事業が次世代社会を支える、……「農」の礎たらんことを。


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昭和初期、羽ノ浦町岩脇で行われた競犂会
(写真提供:徳島県立文書館)

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