a a
title

01

02
昭和20年頃の用水改良工事
(写真提供:阿南市)
03
大正5年の耕地整理
明治以降、徐々に近代的基盤整備が進んでいく。
(写真提供:阿南市)

明治維新を迎えて世の中の制度や体制は一新される。

しかし、地租改正による地代の納税はこれまでの年貢以上に厳しいものとなった。この地方は小作率が平均60%と高く、阿南市見能林では明治末期でも地主の所有率が約八五%と異常な高さであった。

明治から大正にかけて徳島県は全国に名の知られる小作争議の激発地となった。


 生活の苦しさを示すようにこの地からは多くの人が北海道に移住している。徳島県からの移住は約五万人、東北各県と並ぶ有数の移住県であった。そのうち、那賀郡の移住者は20数%を占め、県下でもトップであった。

明治二年には、那賀川の洪水を岡川へ流すために竹原堰には越流堤が造られた。石積みのこの堤も洪水のたびに破壊され、南岸の人たちは越流の災厄、修復の重労働に歯を食いしばって耐えてきた。この越流堤は、いつしか「ガマン堰」と呼ばれるようになった。

徳島平野では、幕末の「吉野川筋用水在寄申上書」以来、藍作から米作への転換が課題になっていた。明治30年代、化学染料の普及などに伴なって藍作が衰退すると、県は吉野川の治水や水田開発に財政を向け、次々と基盤整備がなされていく。

しかし、那賀川平野は藩政期とそれほど変わらず、養蚕、牧畜、果樹など農民の模索は続いていたが、いずれも衰退していく。


 明治19年、南岸に乙堰が造られる。そして同22年には大西堰が通水。しかし、取水量が多くなった分だけ渇水時の水不足も増え、水争いが激化してゆく。

 明治26年の渇水では、大井手堰掛りの農民は手に鍬を持って集合、竹原堰から大井手堰まで20町(約2km)を砂洲を掘り、水を引いた。これを聞いた南岸の農民もすぐさま埋めにかかり、両岸入り乱れての大乱闘となった。警官の制止にもかかわらず、乱闘は3日間も続き、翌日の雨で治まったという。

04
大正時代の那賀川筋平面図。
当時は、まだ近代的な連続堤は築かれておらず、洪水も度々であった。
(画像提供:国土交通省四国地方整備局那賀川河川事務所)

 また、那賀川に連続した頑丈な堤防を造るためにはいくつかある取水口も障害となる。こうした、取水と治水は一体のものであるとする考え方が認められるのは大正時代にはいってからであった。

国でも抜本的な河川改修の必要を認め直轄河川として選定。しかし、財政的な問題もあり、那賀川改修工事が完了したのは昭和18年であった(ガマン堰は撤去)。

一方、河川改修と平行して北岸や南岸における堰の統一も図られていった。


05
かつての見能林地区。
明治から昭和初期にかけての風景と推定される。
(写真提供:徳島県立文書館)
 南岸の統合堰は県営事業として工事が始まったが、戦時中の資材不足などから12年の歳月を要し、ようやく完成を見たのは戦後の昭和29年。
 一方、北岸統合堰は、昭和23年、国営事業として着手され、昭和30年に完成。

 こうして、ようやく那賀川平野は近代化の道を歩み始めることになり、徳島県を代表する穀倉地帯へと変貌を遂げてゆくのである。




 ※ページ上部イメージ写真 : 昭和時代の阿南市桑野町。水田の測量をしているのであろう(写真提供:徳島県立文書館)
back-page bar next-page