北海道の歴史をここに住んだ人々の生活史とすれば、それは日本列島と同じ程度の古さにさかのぼることができるでしょう。しかし、東北6県と新潟県を合わせた面積に匹敵するこの広大な島の歴史が内地と著しく異なる点は、他の地域が古くから農耕文化に染まっていったのに対して、北海道はつい近年まで縄文時代とさほど変わらぬ漁猟生活が営まれていたことでしょう。


明治以前までの蝦夷の地はおそらく有史以来一度も斧を入れたこともない大原始林に覆われ、そこに住む人々は鳥獣を狩り、野草を摘み、川や海の魚を捕って生活していました。彼らは蝦夷の先住民(原日本人とも言われている)でしたが、文字を持ってなかったのでその歴史はよく分かっていません。


【写真】シャクシャイン像

本州とは古くから交流もありましたが、和人がこの地に渡り、独自の生活をするようになったのは室町時代、14世紀の末頃からでした。移り住んだのは青森県下北半島の豪族であった蠣崎氏。蠣崎氏は蝦夷人を排除して福山を本拠地とし、独自の政権を打ち立てました。5代慶広のとき豊臣秀吉に蝦夷島主と認められ、姓を松前と改めます。1604年、徳川家康により江戸幕藩体制の一藩に組み込まれますが、それでも勢力範囲は道南の函館から熊石までの数十里の地(松前地と呼ぶ)であり、農業生産のない松前藩に与えられた権限も石高で表される領地の支配権ではなく、単に蝦夷地交易の独占権にすぎませんでした。


1669年、「松前藩を追い払え」というシャクシャインのげきで、ほぼ全島のアイヌ人が決起、19隻の交易船が襲撃され273人の和人が殺されたとあります(シャクシャインの乱)。幕府は東北諸藩にも出兵を命じ、アイヌ軍は敗北しました。そして、松前藩に絶対服従の誓詞を提出します。この戦争はアイヌ民族の命運をかけた戦いでしたが、その結果、アイヌは和人に隷属する道を選ばざるを得なくなりました。

【写真】松前城

正式に1万石の大名として認められたのは1719年。藩財政も当初はアイヌ交易をはじめ鷹、砂金などの特産物収益に依存していましたが、この頃から松前蝦夷地は、ニシン、サケ、コンブをはじめ、いりこ、干しアワビなどのの産地として、幕藩制下の経済に大きな役割を果たすようになりました。 江戸中期から後期になると、ロシアはカムチャッカ半島から千島方面へと進出、他の外国船も北海道近海へ出没するようになります。老中・田沼意次は大規模な蝦夷地調査を行い、ロシアとの交易を進めますが、田沼の失脚(1786年)によって交易は中絶します。


さらに1797年にはイギリス船が室蘭に来航、ロシア人がエトロフ島に上陸。翌年、幕臣であり探険家でもあった近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵土呂府えとろふ」の標柱を立てます。1万石格の松前藩に任せておけなくなった幕府は1798年、松前藩を内地に移封して、蝦夷を直轄地とします。伊能忠敬の東蝦夷地の海岸測量、間宮林蔵の樺太探検・間宮海峡の発見はこうした背景での出来事でした。


【写真】函館の歴史的景観

1804年、ロシア使節が長崎に来航して貿易を要求しますが、幕府はこれを拒否。怒ったロシアは樺太・利尻などに侵入して幕府船を焼くなどの圧力を加えてきました。津軽海峡にも外国船が出没するようになり、幕府は松前藩に新たに城を築かせ、東北諸藩に警護を命じます。ロシアの艦長ゴローニン中佐は国後くなしり島に上陸、警備の日本側に抑留されますが、その報復として捕らえられた貿易商・高田屋嘉兵衛の尽力によってロシア側に侵略の意図はないことが判明し、日露間の緊張は緩和されました。 1854年、日本が開国を認めると、箱館は伊豆の下田とともに開港場になり、幕府は箱館奉行をおきます。この開港によって箱館は大きく変化します。西洋人の渡来、洋学校、五稜郭の築城、洋式造船、キリスト教会など、それまでの縄文式(?)文明の地から、一挙に近代文明の玄関口へと変貌することになるのです。