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 開拓移民が5町歩を開墾して、自作農として独立するためには3、4年かかるのが普通でしたが、その間の苦労は想像を絶するものでした。


 移民は、まず郷里から入植地までの旅費と初年度の生活費を準備しなければなりません。そして、入植地に着くと着手小屋の建設費用。生活用品や家具代。さらに、開墾・耕作の道具、灯火用石油、薬代その他、渡航費を除いても最低200円程度の移住資金を要したといいます。


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【写真】太田屯田兵村の家族

 開墾は、原生林との格闘から始まりました。巨木の原生林と鉄の網のように密生する熊笹。それをマサカリとノコギリ、鍬だけで片付けていかねばなりません。播種適期の遅れはそのまま食糧を失うことになるので、家族総出の激しい格闘が続けられました。


 初年度で1町歩も開墾できれば上等とされていました。収穫を終えれば、自給用食糧を残してもいくらか収入が得られるのですが、とても翌年の生活費までは稼げず、薪炭の製造や出稼ぎ、山の労働などで副収入を得ながら再び苦しい開墾を続けるという生活でした。


 5町歩の開墾に成功して、晴れて土地の付与を受けるのに、普通は4、5年かかります。それも順調な平年作に恵まれてのことであり、開墾中に洪水や冷害に見まわれ、土地を捨てて流亡する例も少なくなかったといいます。


 「開墾は、それはもう厳しいものでした。木の根があり、石があり、支給された鍬は、すぐ歯がボロボロになり何の役にも立ちません。まず木を切り倒し、薪にして売りに出します。その後、根を掘り起こし、大きな根は火薬抜根でおこしていきます。樹齢100年以上と思われる桂の木や、楢の木が何のためらいもなく次々と薪にされていったのです。やっとの思いで拓いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ等を植えましたが、斜里岳下ろしの強風にあおられ、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶、外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらの動きを伺っています。(中略)卵を得るために飼ったニワトリは寒さのため卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃やして暖をとり、夜はおき火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵にして休みます。朝起きると、布団の衿が凍っていたり、ふぶきの日には、布団の上にも雪が白く積もっていまいます。もう少しましな家が欲しい、と皆さんに手伝ってもらい、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」


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 「家といっても、小さな拝小屋でした。板、柾、釘等何もないので、やちだもの木の皮をむき、ぶどう蔓でゆわえて屋根にし、熊笹とか松の枝をぶどう蔓で巻いて壁にし、床は土間でした。真ん中に炉が切ってあり、大きな丸太んぼを常時くべ、火種を絶やさないようにしていました。くべる木は、なら、いたや、しころ等で、おんこや松ははねるので使いませんでした。何にしろ、寝るところが笹の葉をしきつめ、ムシロをしいていましたので、火がはねると大変なのです。(中略)海水は命の水でした。浜へ遊びに行く時は、それぞれが一升びんやがんがんを持って行き、帰りには必ず海水をいっぱい入れて帰って来ました。塩、味噌、正油が手に入るまでは、この海水が唯一の調味料でした。」


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 「ストーブもなく、川辺に石を積み、かまどを作って天気の良い日には外で食事、雨天はやむなく家の中で、煙突もない、かまどなので煙が家の中にたちこもり、天窓はありましたが開けられず、飯川さんの仏像が燻製になるのではと思いました。雨もりにも悩まされ、濡れては困るものを抱えて、一晩中逃げ回ったこともたびたびでした。ランプもなく、作業用ガス燈が一つだけでしたから、海岸でトッカリ(アザラシ)を捕り、その油を貝殻に入れて灯しました。肉も大切な栄養源でした。初めは、浜から拾った貝殻を食器替わりにしていました」(以上斜里女性史をつくる会発行『語り継ぐ女の歴史』より)。


 これらの手記は昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録ですが、昭和時代でさえ、開拓民は縄文時代さながらの暮らしを強いられたことが分かります。明治の開拓民の厳しさはおそらく今の私たちの想像をはるかに超えるものであったと思われます。

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