屯田兵とは、兵士を遠隔地へ派遣し、平常は農業を営むかたわら軍事訓練を行い、いざ戦争が始まったときには軍隊の組織として戦うことを目的とした土着兵のことです。中国では漢の時代から明代まで盛んに行われた制度でした。


【写真】太田屯田兵村の家族

新政府で北海道に屯田兵の設置を主張したのは西郷隆盛と言われていますが、彼の影響を受けた開拓使長官・黒田清隆が建議し、明治7年に制度が制定され、翌8年、札幌郊外の琴似兵村で兵屋200戸を建築、宮城・青森・酒田3県および北海道内からの志願者193戸、965人が移住したのがはじまりでした。 この制度の背景には、士族の失業対策がありました。士族に「兵」という誇りを持たせながら開拓という自活の道を開かせようとしたのです。したがって、最初の頃の屯田兵は士族のみを対象としていましたが、しばらくしてその制限も緩み、平民出身の屯田兵が開拓の中心となっていきます。明治37年に制度が廃止されるまで、各地で37兵村、7,337戸、39,911人が入植し74,755haの開発が行われています。


通常、1兵村は200〜240戸からなり、1戸当たり5町歩の土地が支給され、練兵場・官舎・学校など公共施設を囲んで兵屋が規則的に配列されていました。 生活規則は厳しく、起床と就業の時間が定められ、軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援、また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ねていました。


屯田兵は、西南戦争、日清戦争、日露戦争に参戦しています。余談になりますが、西南戦争では、下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったため、戊辰戦争の敵だった薩摩士族を相手とするこの戦いには奮い立ちます。しかし、上官や将校は黒田清隆を中心とする薩摩閥が占めていたため戦意が乏しかったそうです。しかし、戦後の論功行賞では上官であった薩摩閥が優遇され、奮戦した下士兵卒の東北出身者には冷たかったため1人の将校が抗議の切腹をしたそうです。


屯田兵制度が北海道開拓に果たした役割には大きなものがありますが、特筆されるべきは現在の北海道における土地利用、なかんずく牧畜と大規模営農に適したアメリカ型の広大かつ整然とした区画でしょう。例えば、上川地方の屯田兵村では1戸当たり30間×150間(54×270m)の区画で10戸ごとに道路を設けて格子状にしており、道路の両側に宅地、その背後に耕地という開拓集落特有の形態をとっています。こうした屯田兵村の形態を基礎に明治29年、全道を統一的に規定する植民区画が施行されます。幅10間(18m)の基線道路とそれに直交する300間(540m)間隔の道路。300〜500戸を1村として共同施設を構えるという組織的な配置がとられました。


こうした区画割は、今でも農村部のみならず、都市にまで適用されています。現在、北海道は食糧基地としての地位を揺るぎないものとしていますが、その基盤として、こうした区画割に基づく大規模な農業経営があることは論をまたないでしょう。