現在、北海道の米の生産量は作付面積とともに全国1位の座を獲得しています。しかし、今日の姿を明治の時代、誰が予測しえたでしょうか。


明治4年、開拓使が招聘したトーマス・アンチセルは石狩地方の調査に際して稲作の無理を説き、理由として「灌漑の用いるところの河水にして寒冷なれば穂を出すに至らざるなり」と報告しています。ケプロンやクラーク博士も、北海道では稲作は無理であり、本州のような小規模農業技術では非効率なので、麦作を中心に家畜や器械力を使った大規模農業を提案し、食生活も米からパン、ミルクへと主張します。彼らの提案どおり稲作は禁止されました。しかし、米作りへの執着は外国人の建言程度で変わるはずもありません。


青森県とさほど気候条件の変わらぬ道南地方では幕末から米作りがなされていましたが、札幌より北ではほとんど不可能とされていました。この常識に不屈の魂をもって挑んだのが米作りの名人・中山久蔵なかやまきゅうぞうでした。


【写真】中山久蔵

明治4年、札幌郡広島村島松(現・北広島市島松)に入植した久蔵は、道南で栽培されていた地米「赤毛」と「白髭」を持ち帰り、10aの水田を造りました。しかし、やはり川の水は手を切るように冷たく、久蔵は迂回水路を造ったり、風呂を持ち出して湯を沸かし温水を苗代に注いだりして試みました。気温の下がる夜には徹夜をして風呂水を入れ替えたといいます。この結果、明治6年、345kgという高収益を得ます。翌年は不作に終わるものの、諦めることなく血の滲むような努力で水田を拡大し続けました。


そして同10年の第一回内国博覧会に自作の米を出品。大久保利通内務卿より褒章をもらうという快挙を成し遂げます。その後、何度も品評会に出品し、そのつど表彰を受けるまでになりました。


試作の末、彼が品種改良した「石狩赤毛」100俵を開拓者に無償で配り、農村を訪ね歩いて稲作の指導に当たりました。久蔵とそれにつづいた人たちの成果を見て、道庁も後に稲作奨励に方針を転換することになります。


明治25年、第4代北海道長官として赴任した北垣国道は、東京農業大学教授兼農商務省技師で当時の米作りの権威であった酒匂常明(さこうつねあき)を道庁財務部長として招きます。酒匂は農学士・農芸化学士でしたが、ドイツ留学で土地改良を学び、帰国後「土地整理論(ほ場整備)」を書くなど、最も先進的な学者でした。彼は、稲作が北海道の開拓を進展させると考え、道庁の施策として米作りを奨励しました。米つくりの名人・中山久蔵を道庁の嘱託として各地の営農指導にあたらせています。


【図】北海道稲作普及状況図
出典:川口文夫『北海道米作の地理学的研究』

彼の功績で特筆されることは、直播栽培の普及でしょう。今のように機械もない時代では北海道の農地区画は広すぎました。彼は直播試験を指示し良好な成績を収めます。直播栽培は石狩、空知、上川など水田規模の大きいところでは急速に普及し、稲作普及の大きな要因を作りました。


酒匂が赴任した明治25年には全道で2,400haであった水田面積は、同36年には16,200haにまで拡大することになりました。