瀬戸の穴海
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瀬戸の穴海
図1 戦国時代の頃の海面古図
海の部分が現在の岡山平野
倉敷市藤戸町藤戸[ふじと]───このあたり一帯は、「平家物語」で名高い源平・藤戸合戦の古戦場である。1184年、一ノ谷の戦いの後、源平両軍が“藤戸海峡”を挟んで対峙した。
ある源氏の武将が、地元の若い漁師から、馬が渡れる程度の浅瀬を聞き出し、騎馬のまま海を渡って平家の陣へ奇襲をかけ、この藤戸合戦の勝利をものにしたという*1
図1の古図(戦国時代の絵地図)でいえば、中央やや左上、浮洲岩[うきすいわ]、經嶋[きょうがしま]とあるあたり、海の狭まっているところが藤戸海峡*2

さて、この古図。
ここに描かれている場所は、瀬戸内海のように見えるが、実は岡山平野のほぼ中央部、現在の地図(図2)の枠内あたりなのである。

図2 現在の岡山平野

源平合戦の時代、いやもっと下って、この古図が描かれた戦国時代まで、現在の岡山平野は、幾つかの島嶼[とうしょ]が点在する一面の浅海であり、当時は「瀬戸の穴海[あなうみ]」と呼ばれて、海流の強い讃岐[さぬき]海峡を避けた瀬戸内海の主要航路であったという。古図に描かれた島々は、早島、玉島、箕島[みしま]といった島のつく地名としてそのまま残り、広大かつ平坦な岡山平野に散在する丘陵として、市街化された今も、島であった往時の景観を偲ぶことができる。海の底が隆起したわけではない。海面が下がったわけでもない。この平野のほとんどは、干拓という名の農業土木によって造り出されたものなのである。

児島湾周辺の眺望。
耕地はすべて干拓により創出されたものである。
現在の岡山平野の耕地約25,000haのうち、実に、約20,000haが干拓によって生みだされている。
こんにち、農業土木という言葉は、文字どおり農業のために行う土木工事を意味している。しかし、少なくともつい近代まで、その種の営みは、山を治め、川を治め、水を利し、世を治める、いわば経世学*3であった。
ために、その意味で農業土木という概念を語るとき、外国語に訳しようがないともいう。


わけても干拓は、その農業土木の雄であろう。
海や湖を干しあげて田畑を築くという人類の営みは、自然の摂理すら変えてしまう。当然そこには技術や労力だけでなく、経世学たるべきある種の理[ことわり]、哲学のようなものが要求されるはずである。

藤戸古戦場から児島半島へと足を伸ばしてみたい。
瀬戸内海に浮かぶ大きな島であったこの山の頂から、かつての瀬戸の穴海が一望できる。

鳥瞰[ちょうかん]してみようではないか。
いったい、どんな歴史がこの岡山平野を埋め尽くしてきたのか。



※1・・・ 源氏の武将は佐々木盛綱。この戦いの恩賞で盛綱は児島の領主となり、先陣堂、経ケ島といった史跡とともに、地元に架かる盛綱橋の名で歴史にささやかな足跡をとどめている。余談ながら、盛綱はこの浅瀬の道が他の武将に漏れるのを恐れて、浅瀬を聞き出した漁師を殺してしまったらしい。つまり、当時の藤戸海峡はそれくらいの深さであった。この話は謡曲「藤戸」にも謡われている。平家はこの戦いで敗れ、屋島へと敗退。壇ノ浦で滅ぶ。
※2・・・ この古図は南北が逆さまに描いてあるので、上が南、すなわち瀬戸内海側。大きな島は今の児島半島である。
※3・・・ 世を治める学問。今でいう政治、経済、思想、教育、土木など広範な学問領域。



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