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干拓や農業土木の栄誉を個人の業績として記[しる]すのは、あまり適切ではなかろう。

しかし、藤田伝三郎という名前も、日本の干拓史を語る際、外すことはできない。

彼は、大阪・京都間の鉄道、琵琶湖疏水、軍港などを造り、東洋紡、南海電鉄、毎日新聞、同和鉱業、藤田観光など多くの会社の基礎を築いた大阪財界の大立物である。

実際に、干拓の苦労を背負ったのは全任務をまかされた藤田組の職員であり、伝三郎は一度きりしか岡山には足を運んでいない。

しかし、明治政府すら持て余した“世紀の大事業”児島湾干拓は、紛れもなく藤田伝三郎個人の決断により生まれたものである


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■藤田伝三郎

岡山に再び干拓の論議が浮上したのは明治12年(1879年)。

職と地位を失った士族達が結社を作り、県や国に旺盛な請願運動を展開した。

しかし、3,000ha、4,000haという児島湾の大半を埋めてしまう夢のような計画である*1

成功のメドはほとんど立たず、資金的にとても採算のあう見通しもなかった。

国は資金難を理由にこれを断念。士族結社も事業主を求めて東本願寺やら三菱、鹿島など大手の資本に頼ったが、いろいろと紆余曲折を経て、結局は大阪の豪商・藤田伝三郎の手に委ねられることとなった。

この児島湾干拓をめぐっては、洪水の害*2、古田の湿田化、遡行[そこう]の困難化、漁業保障など、激しい紛糾が20年間ほど続いている。


工事が始まったのは明治32年。御雇い外国人技師R・ムルデルが策定した一区と二区からである(下計画図参照)。

当時はまだコンクリートもない時代。堤防は粗朶[そだ]、捨石[すていし]、漆喰[しっくい]などで固めるという江戸時代そのままの工法。一区・二区とも干潟が発達しており、工事は楽かとも思われたが、児島湾は底無しのような泥海であった。堤防があらかたできあがると、見る見るうちにその重みで全部が泥盤に沈んでしまう。その繰り返し。大変な難工事であったという。


事業費は膨大に膨らむ。藤田はこの間、他事業の失敗もあり借財を重ねながらも、この工事を続行させている。しかし、彼は二区の完成を見る直前の明治45年、この世を去ってしまった。


ともかくも大変な苦労を乗り越え、一区・二区の1,758haの内、1,230haが藤田農場として完成。藤田農場はアメリカ型の資本主義的大農場経営を試みたが、隣の興除[こうじょ]村と同様、小作争議が発生し、全国の注目を集めたりもした。昭和30年代始めの頃、藤田村を見聞した評論家の大宅壮一は、「農家の生活水準の高いこと」に驚き、「日本一の電化村」だと報告している*3


さて、ここでもう1人、名前をあげなければならない人物がいる。上述したが、この児島湾干拓を最初に計画したオランダ人技術者のR・ムルデルである。


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■R・ムルデル

周知のごとくオランダは国土の1/3が海面より低いという干拓王国であり、当時の土木技術の水準は世界でも飛びぬけていた。


明治14年、ムルデルが日本政府の要請で児島湾干拓の調査を行った時、彼が最も驚き、かつ最重要視したのは、この地方の「樹木すでに伐採せられ、もしくは株根のみわずかに存し、または全く禿裸[とうら]したる山」であった*4。彼は、警察官をおいてまで森林伐採を禁じ、砂防を行なえと強く主張している。

つまり、治水や干拓は、水源から河口まで“水系一貫”としてとらえよという熊沢蕃山と同じ思想である。砂防発祥の地・岡山の恩人ともいえよう。


さらに彼は、当時激しかった干拓反対運動に対して断固とした反論を寄せている。

このまま放っておいても、土砂流出、洪水の害は治まらない。古田の湿田化もますます進行する。それより何年かかろうとも、山を肥やし、川を掘り、泥海を干し、岡山の産業と交通の利便を図るべきである。

つまり、彼の計画は今でいうところの地域の総合整備計画でもあり、経世学的なニュアンスを持っていたことになる。


下に、ムルデルの計画図を示す。

戦後の児島湾干拓事業(今の地形)とほぼ同じ。彼の調査・計画の正確さに驚かざるを得ない。しかし、ただ1点、ムルデルは、日本特有の水田農業というものをあまり理解していなかったらしい。


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■ムルデルの策定した児島湾干拓計画図



※1・・・

旧藩家老を中核とした伊木社が3,000ha、士族1,000人余りの微力社が4,000haの干拓を計画。


※2・・・

明治25年と26年、死者400名以上、5万戸以上の浸水という大災害が起こり、反対運動は激化した。


※3・・・

砂川幸雄『藤田伝三郎の雄渾なる生涯』(草思社)より。


※4・・・

この頃の土砂堆積は凄まじく、明治初期の調査では旭川河口部の堆積量は年間で約5寸(15cm)という記録が見られる。


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