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図1. 十郷大堰付近の取水口

渇水[かっすい]時の争いにも増してたいへんだったのは洪水時でした。十郷用水は、大谷川などの水も水路に入り込んでいたので、しばらく大雨が続くとたちまち水路は水であふれ、あたり一面の田は泥海と化します。

また、当時の十郷大堰は、三角錐[さんかくすい]に組んだ櫓[やぐら]に粗朶[そだ]を置いて川をせき止めただけの簡素なものでした(上写真参照)。したがって、九頭竜川に大水が出るたび破壊され、流出することが多く、その都度[つど]、大勢の農民がかりだされ、復旧[ふっきゅう]作業にあたりました。また、その修復[しゅうふく]作業にかかる費用も莫大[ばくだい]なものでした※1

天保13年(1842年)の復旧工事では、人足[にんそく](農民)延[の]べ188,100人を動員して、表1のような資材を要したと記録にあります。


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表1. 十郷大堰復旧の資材

これだけの資材を短期間に調達するのはかなり困難な仕事です。しかし、1日でも早く修復したい。ようやく全部資材をそろえ、工事にかかります。ところが、夏の大雨は何度も来ます。寛政[かんせい]2年(1798年)には、修復完成後の2日後に再び流されてしまいました。

もっと頑丈[がんじょう]なものを造ればいいではないか、と誰しもが思うかもしれません。

しかし、図1をご覧ください。十郷大堰の下流には、いくつかの大きな用水の取り入れ口があったのです。

とりわけ、福井の城下町用水であった芝原[しばはら]用水は、農業用水としても68ヵ村を潤[うるお]していました。また下流に堰[せき]がある河合春近[かわいはるちか]用水も42ヵ村を灌漑[かんがい]する大用水です。

つまり、芝原、河合春近、御陵[ごりょう]などの各用水は、十郷用水の「もれ水」の取水となっていたのです。

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十郷大堰の樋埋仕立の図
[天保13年]

したがって、これらの堰をめぐる紛争[ふんそう]も長く歴史に残ることとなりました。とりわけ、宝暦年間の大堰切落とし事件では、118ヵ村をあげての紛争となり江戸評定所での裁判にまで発展、その解決には5年の歳月を要しました※2

平野の人間がみな生き残るため、お互いの堰との血みどろの調整、苦闘を何百年も続けてきたのです。




※1・・・一度出水があると、取水口付近には土砂が堆積するため、そのたびに取水口も深く掘り下げねばならなかった。江戸後期の大規模な修理だけでも、
享保7年(1722年)、享保11年(1726年)、享保14年(1729年)、寛保2年(1742年)、宝暦3年(1753年)、明和3年(1766年)、安政7年(1778年)、寛政2年(1798年)、文化4年(1807年)、文化13年(1816年)、文政8年(1825年)、天保13年(1842年)、嘉永2年(1851年)、安政2年(1855年)。まさに水との壮絶な闘いの歴史であった。

※2・・・宝暦元年(寛延4年、1751年)、五領ヶ島(御陵用水)の農民が大挙して行った十郷大堰の切崩し事件。8月になると大堰の一部を切落とす慣例が守られなかったための非常手段であったが、十郷用水側の118ヵ村の怒りは収まらず、江戸控訴にまで発展した。




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