安曇野水土記
安曇野の遺産 変貌する安曇野 1000年の宿命と水土の変遷 拾ヶ堰の偉業 縦堰と横堰 集落の成立 消える川 海人・安曇族の里 安曇野の春
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今の穂高町。

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海で漁をして暮らしているものの総称を「あま」と呼び、安曇ともいった。海部は、朝廷の水軍や、朝廷に海産物を貢納する漁民からなる有力な集団。諸国の浦々に住む海部達の長官は、安曇連(あづみのむらじ)とも呼ばれた。

*3
663年、日本軍と百済軍とが唐・新羅の連合軍と交じえた戦い。この戦いを陣頭指揮した安曇比羅夫は穂高神社若宮に祀られている。

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谷川健一『日本の地名』より。

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その舟の上には、三国志など歴史的故事にちなんだ人形の飾り物がそえられる。これは、昔の領主・安曇比羅夫が征韓のため渡海した時、比羅夫の人形を作って武運を祈ったのが始まりといわれている。

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有明山の麓、魏石鬼(ぎしき)の岩屋に住み、縦横無尽の魔力を振るったとされる安曇野の鬼神伝説。耳塚、立足など八面大王にまつわる地名もある。

*7
600年の遷宮を誇る国宝・仁科神明宮、流鏑馬(やぶさめ)で名高い若一王子神社、曹洞宗の名刹・霊松寺など仁科文化の所産は、今もこの地を華やかに彩っている。

*8
貞享3年(1686)に起こった大規模な百姓一揆。千葉の佐倉義民伝と並んで教科書にも載った。この話は、大正時代になって小説や戯曲でも取り上げられ、東京の歌舞伎座でも六代目尾上菊五郎によって上演されている。

*9
明治17年、ダムやコンクリート水路などいわゆる近代的農業土木が施される以前のデータによれば、この地の耕地は2/3以上が水田となっている。水田率は67.3%とすでに長野県で1位。当時、50%を超える地域は、諏訪(63.7%)と下伊那(53.7%)地方しかない。
海人・安曇族の里
信府統記という古い書物には「信濃国有明の里*1は景行[けいこう]天皇12年まで湖であった」という意味の記述がある。
景行天皇といえば日本武尊[やまとたけるのみこと]の父。
その昔、安曇野一帯は四方を山々で囲まれた大きな湖であり、泉小太郎[いずみこたろう]という男が生坂[いくさか]村の山清路[さんせいじ]というところを切り崩して今の犀[さい]川に流し、安曇野の大地が誕生したという伝説も語り継がれている。

泉小太郎は、安曇[あづみ]族であったといわれている。
安曇族 ―――古代日本を代表する海人[あま]族・安曇氏。

神系氏族とされ、大和朝廷以前、弥生時代の頃から重要な地位にあったと伝えられている。その本拠地は北九州の志賀島一帯、遠く中国まで交易をし、海部[あまべ]*2を支配して勢力を誇った有力な豪族である。後に、白村江[はくすきのえ]の戦い*3を指揮した安曇比羅夫[あづみひらふ]など大和朝廷の水軍の指揮官を務め、外交、あるいは内膳[ないぜん](食事)職としても高い地位にあった。

水軍であるだけに、あちこちに移住し、その勢力を拡大した。
筑前国糟屋[かすや]郡安曇郷(福岡県)、伯耆[ほうき]国会見[あいみ]郡安曇郷(鳥取県)、美濃国厚見[あつみ]郡厚見郷(岐阜県)、三河国渥美[あつみ]郡渥美郷(愛知県)……。いずれも、海人・安曇族の住みついた地とされている。

「アヅミは、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記され、その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江におよび、琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している*4」。

安曇族は、こんな山岳地帯にも住みついたらしい。
一説には、大和朝廷に命を受けた越[こし](北陸)の制圧のためという。

この地の守護神・穂高神社には安曇氏の祖神「穂高見命[ほたかのみこと]」とその父「綿津見命[わたつみのみこと]」が祀られており、今でも同神社の祭りの日には、何艘[そう]もの船がくりだし互いにぶつけ合う豪壮な行事を見ることができる*5

「安曇」という郡名が現れるのは奈良時代(700年代)。
また、この地域一帯には、平安初頭の武将・坂上田村麻呂[さかのうえのたむらまろ]に滅ばされたという八面大王[はちめんだいおう]の伝説も語り継がれている*6。
当時、この地帯の山麓には、官の領する牧場[まきば]があったらしい。

西牧[にしまき]、仁科[にしな]といった地方豪族が支配するのは平安末期。

それからおよそ500年間にわたってこの地を支配してきた名族・仁科[にしな]氏の拠点は、現在の大町市である。

ちなみに、仁科氏は、当時の多くの武将がそうであったように平安京文化に強い憧れを持っていた。今の大町市に京風の町割[まちわり]を築き、近くには貴船神社、北野天満宮といった京都の社[やしろ]を配した*7

安曇野一帯には、高瀬川、木舟、定光寺、小倉、室町橋、鳥羽、吉野、大原といった京都を連想させる地名が多い。

江戸時代の幕藩体制では、この地は松本藩の支配下に入る。
しかし、この藩の城主交代はひどく目まぐるしい。
石川二代、小笠原二代、戸田二代、松平一代、堀田一代、水野六代、戸田九代。いずれの代も石高は七万石前後。
写真提供:信濃毎日新聞社
写真提供:信濃毎日新聞社
決して豊かな領地ではなかった。
水野氏の代で起きた有名な農民一揆*8。多田加助のもとに集まった一揆の農民は実に一万人を超えたと記録にある。

今、信州で1、2位を競うこの穀倉地*9

アルプス、筑摩山地、夏なお根雪を残す高嶺に四方を囲まれ、安曇族が海を捨ててまで定住したこの地には、にわかには信じがたいことに、水が少なかったのである。
 
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