福岡県:矢部川水系

棚田

 矢部村の田圃のほとんどが川沿いの段丘や山腹の斜面に石垣を組んで造られた棚田である。村内の竹原・山口・田出尾・御側・日出・横手・古田・臼ノ払などの地区で、素晴らしい棚田と出合うことが出来る。

 なかでも御側川の下御側の女鹿野から堰揚げられた用水路を辿って、瞼しい山腹をくねくねと行くと、4km程先の崖の上の台地に拓けた5町歩余の田園に出る。この用水路は明治45年頃に造られたもので、数mごとに提灯を灯して千分の一の勾配を取って溝を切り、漏水を防ぐために赤土の粘土を塗り込めて造られていた。この用水路を推持管理するために、毎年4~5月にかけての田植え前に、用水路の掃除や修復などの「井手普請」が用水の需要者の手によって行われる。戟後、農業構造改善事業によって三方コンクリートの用水路に改修されたが、改修以前は井手普請に1週間から10日も要していたのだという。
 昭和に入ると、牧(昭和7年)・神ノ窟(同11年)・古田(同14年)・今屋敷(同15年)・山口(同27年)のそれぞれの地区でも用水路の開発改修と耕地整理が行われ、耕地の拡大が図られていった。しかしながら、減反による転作で茶畑や杉林に代わってしまい、かつての美田の面影を失いつつある。
 さらに、山中の林道開発が棚田の水源を分断し、経験の積み重ねによって徐々に形をなしてきた棚田の水利の技術が随所で失われ、谷から延々と硬質ホースで田へ引き水することで用水を確保している棚田を多く見かけた。
 ホースの元を辿って茨の山腹を登っていて、詰まってしまった血管のバイパス手術の跡を辿るような思いにかられたのだが、時代の移りかわりの中で生じた矛盾を一本のホースが担うことで辛うじて米作りが続けられている風景に痛ましさを感じてしまった。


田植えの後の田圃の見廻りは重要な仕事のひとつだ。田圃の水掛かりを確認し、弱った苗はないか、畦は壊れていないか、自然のなかで生じるさまざまな状況に即応しながら、秋の収穫まで息を抜けない。



沢から延々と引かれた水路。水路のサブタを閉じ、田圃へ水を引き込む。急勾配を滝のように流れ落ちる用水。


田圃に用水が溢れると棚田を壊すことになる。この棚田では、田の底の石組みによる暗渠で、水路の余水を直接、下の沢へ逃がす仕組みが造られている。



棚田


沢に設けられた取水堰と水路