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第2章 輪中と歴史的用水 昭和初期の木津用水
 「美濃の堤は尾張より三尺低くすべし」。尾張と美濃は、木曽川でその国境[くにざかい]をなしている。左岸、つまり下流に向かって左側が尾張、右側が美濃の国である。尾張は徳川御三家筆頭の62万石。対して美濃側は数万石に過ぎない弱小大名で分割されており、たとえこの御囲堤が切れたとしても、尾張側の補修が済むまで美濃側の工事は許されていなかった。
輪中分布図
 その後の尾張藩の隆盛も、現在の名古屋市が日本三大都市圏の中核たりうるのも、いわばこの御囲堤という<動かざるための技術>がもたらした最大の恩恵であろう。
 しかし、美濃側(伊勢国の一部も含む)にとって、この堤防は悪夢のような存在であった。とりわけ下流部では、木曽川に加えて、揖斐川、長良川と大河川が集まっている。雨のたびに洪水。しぜん村々はそれぞれの村を取り囲む土手を築く。「輪中[わじゅう]」である。
 輪中の歴史は奈良・平安時代にさかのぼる。はじめは上流に向けた半円形の堤防であったものが、鎌倉末期になると次第に輪の形へと増強されていったらしい。御囲堤の築造後、墨俣[すのまた]輪中など地名として文献上でも多く見られるようになり、享保年間(1700年代初期)、この地には大小あわせて80あまりの輪中があったという。
 
 一方、尾張側でも農民は途方にくれた。この堤防が完成すれば、それまで派川であった五条川、青木川、野府川、日光川、三宅川、領内川等々が締め切られ、その川に依存していた約5,000haの水田が水源を失うことになる。
 このため尾張藩は堤防の築造と同時に2カ所に“圦[いり]”(杁とも書く。堤防に造られた水門)を設け旧河道に流したが、元の用水量をまかなえるべくもなく、用水の配分にも大きな混乱が生じた。ここから約1世紀におよぶ長い農民の闘いが始まるのである。旧河道や以前からあった般若[はんにゃ]用水、大江用水などが次々と組み合わされ、様々な軋轢[あつれき]、調整を経て、複雑な水利ネットワークが形成されていった。これが現在の「宮田用水*1」である。さらにその数10年後、犬山扇状地を潤す「木津[こっつ]用水*2」「新木津用水*3」の誕生を見る。
 これは水利用の歴史において極めて画期的なことであった。これまでは派流など小川からの取水であり、大河川からの直接取水は見られない(洪水時に水が溢れてしまう)。対して、これらの用水は、圦、すなわち堤防に造られた水門からの取水であり、治水と利水を統合した人間の手による大掛かりなみず統御[とうぎょ](コントロール)であった*4
 もともと尾張平野は洪水の氾濫原[はんらんげん]、土地は肥沃[ひよく]である。水さえ統御できれば、これほど水田に適した地はない。これらの用水により、尾張の新田開発は爆発的に広がっていく。
 しかし、コンクリートも鋼鉄製のゲートもない時代。木製の水門は破損も多く、ミオ筋(川の水の流路)の変動などにより、取水条件は悪化する。大河からの取水は絵に描いたほど容易ではなかった。新田が増えれば水は不足し、あちこちで水争いが発生。何度も何度も水門の位置を変えたり統合したりと、尾張の農民の苦労も尋常ではなかった。その何100年におよぶ血の滲[にじ]むような水争いの葛藤[かっとう]を通して、愛知の緻密[ちみつ]な水利秩序が形成されていくのである。
 これらの用水は、後に国営の濃尾[のうび]用水事業として整備され、取水口は一つになるなど近代化されたが、約400年を経た今も、水の路そのものは微動だにしていない。

*1 宮田用水は、古くからあった大江用水、般若用水、奥村用水の他、御囲堤によって廃川となった河道をネットワーク化したもの。当時の取入れ口は大野杁、般若杁と2カ所あったが、何度も移動したり、新般若用水なども開削されている。御囲堤の築造以来、支線水路まで含めて水利ネットワークが満足な形になるのには約1世紀におよぶ年月を要している。なお、一宮、稲沢市など広大な地域を潤している大江用水の歴史は古く、記録上では1001年。尾張国司であった大江匡衡(妻は歌人で有名な赤染衛門)に由来するともいう。
*2 木津用水は、入鹿池の築造(次頁記載)にもかかわらず、水不足に悩まされた用水末端の農民のために、入鹿池「六人衆」が開削した(1650年完成)。木津村(現犬山市)より取水、小牧を経て、名古屋の庄内川に流れ込んでいる。新木津用水に対して、古木津用水とも呼ばれる。
*3 新木津用水は、木津用水から14年後、再び入鹿池「六人衆」が中心となって春日井原(現春日井市)の開発のために開削された(1664年)。水路は木津用水から分流し、春日井原を潤し、庄内川に流す延長14kmの水路。当時の石高は3倍になっている。
*4 “圦”の築造については、一宮の宮大工を大和に派遣させ、その工法を取得させたという。したがって大和の方が利水の先進地だったことになるが、木曽川のような大河川からの水門は初めてであろう。利根川の“圦”で有名な葛西用水は1660年とやや時代が下がる。
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