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御囲堤と輪中分布図(明治改修以前)。
木曽川、長良川、揖斐川の流れが錯綜し、輪中の数は80余りあった。
(出典:水資源公団他『木曽川水利史』)

家康は尾張を自分の直轄地[ちょっかつち]とし、九男徳川義直[よしなお]を尾張藩主にします。

そして、伊奈流川普請[かわぶしん]の元祖・伊奈忠次[ただつぐ]に命じて造らせたのが、犬山から木曽川河口にいたる約50kmの巨大な堤防、通称「御囲堤[おかこいづつみ]」でした。名の通り、尾張平野を木曽川左岸沿いにぐるりと堤防で囲んでしまったわけです。我が国の治水史上特筆すべき連続堤といわれています。


慶長13年(1608)からわずか2年で完成。そして、木曽木材の大量運搬によって名古屋城や城下町の建設がはじまり、それまで尾張の中心であった清洲[きよす]を町ごとごっそり移転させました(「清洲越し」)。

いわば、近世の大都市・名古屋は、この「御囲堤」とともに誕生したことになります。

もともと尾張は、木曽川の氾濫原が造った肥沃な大平野です。洪水さえこなければ、これ以上農業に適した地はないと言ってもいいでしょう。


しかし、家康の意図は、やはり木曽材運搬路の確保にあったようです。大阪城が陥落すると、木曽の山々と木曽川右岸の要衝[ようしょう]である美濃4群を義直に加増し、さらにその後、美濃13群も尾張領としています。これにより木曽ひのきの伐採から運搬、他の領地からの運材や通船に至るまで、尾張藩による木曽川の独占的支配が可能となりました。

さらに、この堤防は巨大な砦として、西国大名に対する強固な防衛線としての役割も持っていました。東海道はこの御囲堤と木曽川で完全に分断され(橋もなかった)、明治に至るまで、尾張より西国への往路は、桑名と熱田を結ぶ「七里の渡し」しかなかったわけです。


さて、このように「御囲堤」は、徳川政権の強化、あるいは尾張62万石の確立に絶大な役割を果たしました。

しかし一方で、この「御囲堤」の建造は、木曽川右岸、つまり美濃側における悪夢のような300年間の始まりでもあったのです。


約9000km2という広大な流域と日本有数の流出量を持つ木曽三川は、河口近くにおいて養老山脈と御囲堤の間、わずか数kmの狭窄[きょうさく]部に閉じ込められてしまったのです。まるで漏斗[じょうご]の出口のようなものです。

さらに美濃側には、約300年にわたって、誰が言ったとも知れぬ史上名高い不文律[ふぶんりつ]が伝承されてきたのです。


曰く、「美濃の諸堤[しょてい]は、御囲堤より低きこと三尺たるべし」。


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