明治に入ると、この地域からは木曽川の地下水が吹き上げるように激しい治水論が沸き起こってきます。寺の住職高橋示証[じしょう]は詳細な調査を踏まえて『木曽川筋治水ノ儀ニ付建言』を上奏、庄屋・片野万右衛門、山田省三郎、金森吉次郎らは私財を投げ打って治水に取り組み、「治水共同社」も設立しました。
政府は、オランダ人技師のデレーケに調査を依頼し、ようやく明治20年から木曽川改修工事が始まります。狙いは言うまでもなく三川分流でしたが、濃尾震災や日清戦争などもあり、完成は大正元年(1912)にまで持ち越されました。着工から25年をかけた大事業でした。
これまで洪水の恐怖に脅えるばかりで、木曽川から水を引くなどとは思いも及ばなかった美濃側の農民でしたが、ここにいたってようやく「木曽川は岐阜県の川であったことに気付き」(『羽島[はしま]用水』)、大正14年、利害の対立していた輪中同士が総会を開き、木曽川からの導水を図る県営羽島[はしま]用水事業を実施する運びとなりました。
それまで輪中の上流地域では、ため池や旧木曽本流であった境[さかい]川から乏しい水を塞[せ]き上げたり、中流地域では水源もなく掘抜[ほりぬき]井戸や堤防からの浸透水に頼るといったありさまでした。
取水口を巡って宮田用水との確執もありましたが、昭和4年に着工、同7年には水路延長11kmの大用水が完成するに至りました。
「ここに幾世紀かにわたり多くの人命財産を奪われ、鬼畜[きちく]の如く恐れ恨[うら]んだ木曽川の水が、今、黄金水にも等しい恩恵に浴する農民の歓喜は、まさに涙ぐましい光景であった」(『羽島用水』)。
しかし、それも束[つか]の間のことでした。洪水に代わる新たな厄難[やくなん]が、今度は上流からやってきました。