稲の伝播

 アジアの「稲の道」の終着点に、日本は位置した。中国江南からのみならず、大陸の各地や島々からも、いろいろな種類の稲を受容した。
 アジア大陸の稲の伝播の道を追ってみると、すべての道が、アッサム・雲南の山岳地帯へと回帰している。アジアにおける稲の経路は、ここに出発して、大陸を縦横に走り、中間種や混在地域をつくった複雑な流れである。大別すると、現在日本人が日常食べている円い種類、すなわちジャポニカ型の稲は、雲南高原に発してメコン川・メナム川などに沿って南へ通じる道と、長江を東に通じる道の二つの主経路を通じて伝播した。また東南アジアに広く分布するインディカ型の稲はベンガル湾沿いの西への道と、ベンガル湾を渡ってインド大陸からインドシナ半島への道の2経路で主に伝わり、インドシナ半島では先に伝わったジャポニカを駆逐して定着したという。

 雲南から東への伝播は長江の流れに沿い、東シナ海の海岸線に到着して、やがて日本への道をたどった。渡来の時期は、今から2千数百年前である。紀元前には、インドシナ半島の優占種はモチ稲であり、江南にもたくさんのモチ稲が分布していたと考えられる時期に当たる。それゆえ、日本列島に稲が到着したころ、日常食はモチ米であった可能性がきわめて高いとされている。今日なおわが国での祭祀にかかわる食事、正月の餅など、すべてハレの行事に関する食素材がもっぱらモチ米であることと深く関連するのであろう。
 稲が伝播したころわが国に営まれていた焼畑農耕が、稲作の受け皿となった意義は大きい。水田稲作農耕文化を一つの体系として容易に受け入れる素地が、採集・狩猟よりも焼畑農耕が優勢であった西日本地域で形成されていたものと考えられるからである。水田の造成や栽培、水の掛け引き、貯蔵、調理・加工などの技術体系の素地が用意されていたと考えられる。
 稲は、当初は他の雑穀と混じって、かんがいもされず栽培されていたらしいが、中国江南地方あたりで確立していた水田稲作技術を受け入れることにより、整った水田を形成しながら、弥生期の末までには本州北端にまで拡がったのである。


炭化して出土した米粒
(国学院大学考古学研究室蔵)


籾跡のある土器
(宮城県多賀城市桝形囲遺跡出土、東人総合研究資料館蔵)

稲の種類
 アジアの稲には、粒の円いジャポニカ、粒の細長いインディカ、芒の長いブル(ジャバニカ)の3種類がある。わが国での中心はジャポニカで、各遺跡から炭化して出土するものはほとんどこれである。東南アジアが中心のインディカは、中世から近世初頭のわが国で「大唐米」として低湿地に広がったことがある。インドネシア在来種のブルは、南西諸島の在来種でもあり、わが国に最も早く伝来した稲といわれる。


ジャポニカ / インディカ


ブル