現代のむら

 太平洋戦争の終戦後、一連の改革により、農地も地主から耕作者の手に解放され、戦後農業の担い手は約1ha程度の均質な自作農になった。
 昭和30年代半ばからはじまる年平均10%を超す高度経済成長に伴い、巨大都市へ人口が集中し、農村も著しい変化をとげた。耕地面積600万ha、農家戸数600万戸をほぼ保ってきたが、昭和60(1985)年には538万ha、438万戸に激減し、農業就業人口も昭和35年の1,450万人から昭和60年には636万人(うち女性389万人)へと半減した。また、自作農体制の基盤であった専業農家も激減し、他産業への従事を主とする第2種兼業農家が全農家の約7割を占めるに至った。
 減少した人口は、次・三男や山村地域の農家の離村であって、都市へ流出した。一方、交通・通信網の整備に伴う雇用機会の拡大により、通勤兼業農家や非農家が農村に定着する傾向にある。
 こうした混住化現象により、集落周辺部における土地利用のスプロール化、家庭排水の増大とそれに伴う農業用水の汚濁など生活環境が悪化し、もともと都市に比べて公共施設の乏しい農村での問題となっている。
 それとともに、農業生産に不可欠な農地や農業用施設の管理も粗放化している。用水や林野の共同利用を通じて小農生産を維持するための必須要件であった近世以来の共同労働が、機械化の進展と集落構成員の混住と兼業の深化による不均質化で、生産面でも、そして共同の溝浚えや道普請といった管理面においても、維持できなくなりつつある。ことに山間部においては、薪炭生産の壊滅などにみられる伝統的な生産形態の行きづまりや不利な農業生産条件・生活条件のため、人口減少が過度に進行した。過疎化が、集落の維持を困難にし、それがまた居住環境を悪化させるという悪循環を生み出すものとなっている。
 このような由々しき事態を打開するため、生産施設の整備のみならず生活環境の整備を行い、それを軸として地域社会での集落的機能の積極的側面、すなわち自主的調整や相互扶助、さらには伝統的文化の継承、地域計画への参加などの面を守り育てていこうとする機運が生じてきている。


混住化が進む現代のむら(東京都下)