変わる農業と国土

 昭和20(1945)年8月の太平洋戦争の終戦から現在までのほぼ40年間に、わが国の社会は大きく変化した。戦争により焦土となったわが国土は、その後の復興と社会の近代化、工業化の進展により、戦前の半ば農業国から国際的な経済大国となり、現在の繁栄がもたらされた。
 稲作の伝来以来、国土をつくり、支えてきた農業・農村もこうした変化の中で大きく変わった。この間の最大の変革は、昭和21年から25年までに193万町歩(約193万ha)の農地を地主から収用し、自作農の創設を図った農地改革であった。この改革により、小作地の割合は、46%から10%以下となり、地主制は解体し、農業の担い手は自作農が中心となった。
 農家の戸数は、終戦直後に一時的に急増し、昭和24年には624万戸になった。しかし、その後の経済成長の中で漸減していき、昭和60年には438万戸までに減少した。しかも農業を専業とする農家は14%と少なくなり、農業のほかに大きな収入源をもつ第2種兼業農家が68%に達するなど、農家の等質性が失われた。それとともに、農業に密着しない非農家が多数農村に生活し、混住化が進展した。
 農業では、戦後一貫して米の生産は増加を続け、戦前の900万tの水準から昭和40年代には1,400万tを超える水準に達した。これは、開田による作付面積の増加もあったが、水稲の単位面積当たりの収量の増加によるものが大であった。しかしながら、米の消費量の減少に伴い、米の生産調整が続けられるようになり、稲の作付は、昭和45年の326万haから60年には234万haに減少した。また、作付作物も著しく変化し、麦・雑穀・いも・豆類などが大幅に減少、野菜・果樹などが増大した。
 しかし、食糧自給率は低下し、昭和35年の90%から漸減し、最近は70%の水準で安定している。この70%の自給率には輸入飼料を使って生産される畜産物が含まれていて、わが国の穀物の自給率は、30%の水準にすぎない。このような変化は、日本人の食生活の変化を反映したものであり、多くの穀物を海外の農地に依存していることを示している。
 このような変化で、国土も大きく姿を変えた。戦後の深刻な食糧危機を背景に緊急開拓が実施され、食糧増産を目的とした農地の開発は昭和30年代半ばまで続いた。その後、昭和36年には「農業基本法」が制定され、高度経済成長の中で農地整備の目的は、農業の生産性の向上や所得水準の向上を目指すものとなり、事業も農地の拡大から生産性の向上を目的とした圃場整備などに重点が移った。
 しかし、現代の国土は、高度経済成長に伴い、工場・道路・宅地などの都市的土地利用が増加し、農地の転用が進んだことに最大の特色がある。人口は都市に集中し、東京・大阪・名古屋の大都市地域が膨張した。農地の中核は、北海道・東北・九州になった。都市的な土地利用の拡大に伴う農地の減少と、そのスプロール的傾向は、三大都市圏から地方圏の諸都市に波及し、土地利用の面で今日的な課題となっている。

活気あふれる岩手県前森山開拓農場 (昭和20年代)