茶飲の習慣はおそろしく古く、縄文時代にさかのぼるらしい*4。貴族たちが嗜んだ茶とは違い、山の民、修験道の行者や山村で愛飲されてきたという*5。
「山茶」とは文字どおり、山に自生する茶であるが、その分布はほぼ西南日本の山岳地帯に限られ、特に三波川変成帯、秩父帯など石灰石系の地質上に連鎖的に認められるとある。
この山茶の分布するところには必ず焼畑農業の形跡があり、山茶と焼畑はワンセットで伝播したことになる。事実、山茶は、山を焼いた後に自然と生えてくるらしい。
興味深いことに、山茶は弥生や古墳時代の遺跡周辺には全く見られないという*6。
山茶や焼畑は木地師との関わりも深い。そもそも彼らの故郷ともいえる近江六ヶ畑(滋賀県東近江市)は茶の産地であったし、茶筅を作るのも木地師の仕事であった。彼らが遍歴した場所には、轆轤、六郎谷といったロクロに関する地名とともに、夏焼、焼山など焼畑に関する地名が多い。漂泊民とはいっても所々で半定住し、焼畑で食料を得ながら、近くの里へ蓑、椀、盆などを売って暮らしを立てていた。
さらに奇妙なことに、この山茶の自生するところには、ほとんど平家の落人伝説があるという。そのためか「茶は平家の落人が広めた」とする伝承も根強く残っている。
確かに、四国山中の平家伝説のある山村はいずれも昭和の初期まで焼畑が行われていた処であり、山茶の自生地でもある。
*1 木地師とは、全国の山中を渡り歩き、ロクロを使って椀や盆などを作って生計を立てていた山の民であり、律令制度が崩壊した頃、近江の「六ヶ畑」(滋賀県東近江市)周辺の六村で発祥したとされている。
*2 柳田は『遠野物語』を出す前に九州や四国の山中を訪れ、そのあまりに稲作社会とかけ離れた狩猟や焼畑の営み、独自な生活習慣などに接して『後狩詞記』を著し、さらに北国・遠野の話にも多くの共通項を見出すに及んで自説の確証を得たらしい。漂泊民などに関する様々な論文を経て『山の人生』をまとめあげるが、その後、山人の研究を止める。盟友・南方熊楠との論争、あるいは万世一系という皇国主義に染まっていく時代の中で、先住民族がいたという自説の危険性を感じて研究を止めたとも言われている。
*3 碁石茶は、山茶を漬け込んで完全発酵させるという独自の製法で、日本には他に類を見ない。乳酸菌が多く薬効もある。
*4 山田新市『日本喫茶世界の成立』などより。
縄文の遺跡から茶の実が出土したという記録があり、山口県の宇部炭田からは3千万年前の茶の葉5点と種子2点の化石が出土している。
*5 山陰には陰干し茶、琵琶湖から北陸には黒茶、阿波や美作には番茶、山陰から北四国にはボテボテ茶、沖縄にはブクブク茶。これらはいずれも山茶を使用しており、新しい製茶法が導入される以前の、古代の製茶法だと推測される。なお、北陸のバタバタ茶は蛭谷集落(富山県朝日町)が有名だが、この集落は木地師の故郷である「六ヶ村」の蛭谷に由来するという。
*6 松下智『ヤマチャの研究』
※ページ上部イメージ写真 : 仁淀川町 茶堂