この地が近畿に劣らないくらい詳細な歴史の記録を持っていることはすでに述べた。
日本で何十万人という餓死者が出た江戸三大飢饉の時はどうであったのか。
享保の飢饉は西日本だけでも約1万2000人の死者が記されている。隣の松山藩が最悪で約3500人。無論、土佐藩でも行き倒れの人数知れずと記録にある。しかし、この地に飢饉の記録は一行もない。
天明の飢饉は東北地方がひどく、弘前藩10万人、南部藩5万人、全国の餓死者は30~50万人とも言われる日本史上最大の飢饉であった。7年間も大凶作が続いたにもかかわらずこの地の記録はそのことに触れてもいない。もっとも天明7年、農民700余名が伊予へ逃散するという「池川紙一揆」が起こっている。しかし、これは土佐藩が紙の統制を行なったことへの抗議であり、飢饉とは無縁ではないにせよ、直接的な関係はない。
豊かな水田地帯では何万人が餓死し、わずか数十戸の山奥の村々が1000年以上も生き延びてきた。モノカルチャー(単一栽培)の怖さを歴史は教えてくれる。
焼畑は原始的農業とみなされているが、切替畑の別称が示すようにマルチカルチャー(多品目栽培)であり、こうした凶作のリスクを分散する山村の優れた知恵であったことを、飢饉に関する記録の不在こそが雄弁に物語っているのではなかろうか。
「百円玉は、まっこと致命的じゃった」と地元の人は今でも語る。
日本の紙幣は三椏を原料としている。特に1000年もつといわれる土佐和紙は紙幣の原料としても評価は高く、山村の経済は、明治より昭和の中期まで日本紙幣という安定した需要が支えてきた。
ところが、昭和23年の五円硬貨を皮切りに26年は十円、30年は五十円、そして32年には百円硬貨が発行され、41年に百円紙幣は廃止。三椏の需要は瞬く間に激減した。つまり、山村とは何の関係もない中央の金融政策が、高度経済成長の直前、山村経済に大きな打撃を与えたことになる。
それ以前に、高知の山村は「黒いダイヤ」(木炭)で空前の活況を呈していた。高知県は西日本で最大の産出を誇ったが、山林は切りつくされ禿げ山と化す(序章の写真はこの頃の撮影)。他の地域でも同じような状況であり、全国で洪水や渇水が続発するようになった。政府は治山治水と将来の需要に備え、高い助成率で植林を奨励した。
「今、杉・ヒノキを植えれば、3、40年後には遊んで暮らせる」とも言われたらしい。急斜面を覆っていた楮・三椏の畑には、ほとんど杉・ヒノキの苗木が植えられた。
昭和30年当時、天然林が約8割を占めていた旧仁淀村では、現在、天然林は約3割。7割近くを人工林が占めるに至っている。その後の林業の不振については述べるまでもなかろう。昭和30年に100%近かった木材の国内自給率は現在約20%。今度は、海外からの木材の輸入が致命的打撃となったわけである。
相次ぐ人口の流出、加速する高齢化……。秘境・椿山集落はかつて約40戸(270人余り)が生活していたが、現在は10戸(16名)。序章の写真にある大見槍集落も現在10戸(17名)。都集落は5戸(6名)。昔、競馬場で賑わっていた松尾集落にいたってはわずか1戸(1名)。その他、旧仁淀村にある61集落のうち、10戸以下の集落は22を数える*。いずれの集落も70歳を超える高齢者がほとんど、大半が独居世帯である。
山の荒廃は必然的に保水力の低下、野鳥や動物の減少、山の生態系の劣化を伴う。下流の川では鉄砲水が起きやすくなり、水質汚染が進行、プランクトンの減少を招き川魚やエビなども減少、海の生態系にも大きな影響を及ぼすことが分かっている。
この百円硬貨の波紋は、下流の社会にも尋常ならざる影響を及ぼし始めている。
山の荒廃がとりわけ危惧されるのは、構造線に沿って分布する破砕帯の地すべり地帯である。破砕帯とは岩石がコナゴナになった地層であり、もとより雨水が染み込みやすい。荒廃した山々に大雨が降ればどうなるか。
すでに、その恐れるべき大規模な地すべりが仁淀川町で発生しようとしている。しかも、その場所は、仁淀川に設けられた大渡ダムの真上、6つの集落を合わせても48世帯となってしまった高瀬地区である。
*いずれも2008年1月時点での数値。
※ページ上部イメージ写真 : 楮こうぞをはぐ作業 出典:『写真が語る仁淀村』(発行 高知県仁淀村)