はるか太古、地球のプレート移動によって生じたと言われ、今もなお活動を続けている日本の大断層・中央構造線。関東・中部・紀伊半島・四国・九州と縦貫するわが国最長の谷であり、宇宙からもくっきり見えるほど深い溝を刻んでいる。
さらに、糸魚川―静岡構造線、御荷鉾構造線などをつなぐと、ほぼ山茶・焼畑の分布と重複し、木地師や修験僧の往来した道筋とも重なる。さらに、このルートは、丹生(水銀や朱の原料)の道でもあるらしい*1。
構造線とは、地質構造を二分するような大規模な断層のことであり、山中に深い谷間を形成している。山の民は、平地人の寄りつかない、この構造線の谷間や尾根道を往還したのであろう*2。
人の生存にとって塩は欠かせないが、宗良親王(後醍醐天皇の子)が約30年間潜んでいたという長野県大鹿村の鹿塩のように、日本の山中にはあちこちに強い塩泉がある*3。また、彼らは山脈をつたい列島を縦断するような広い範囲で交易をおこなっていた。
民俗学者の谷川健一によれば、南北朝における南朝軍の戦いは、吉野宮を中心に、信州の大鹿村から、四国の山岳地帯、九州の八代にいたる中央構造線上に展開されたという。「かつて柳田國男は山人と平地人のたたかいを大昔の日本列島に描いたが、その延長は南北朝の戦いまでもち越され、その戦いが最後になったと思われるのである*4」。
縄文人の末裔*5かどうかはさておき、古代から奥深い山岳で独自の暮らしを続けてきた山の民の系譜があったことは事実であり、平家の落人や南朝の武士たちに山岳の暮らしや戦さの方法を教えたのは紛れもなくこの山の民たちであったろう。
土佐の山中が落人や山岳武士にとって雌伏の適地であったことは、地形図を見れば容易に納得できる。四国の山波は東西に深い谷筋を刻み、瀬戸内海から土佐に達するには、よほどの難路を踏み越えねばならない。
戦いは終わり、時代は変わる。里へ下りた者もいただろうが、残った者たちもいた。
幸いなことに木地師たちは狩猟だけでなく焼畑農法にも詳しかった。山の中で生きてゆく様々な知恵を彼らから教わったことであろう。尾根から下りてきて、焼畑に適した場所を選んで定住したに違いない。
しかし、なによりも農地、つまり、火をいれる場所の選定が難しいらしい。地形、日照条件、土質、植生、標高など様々な条件を見極める目が要求されるという。
ところが、この構造線周辺の山地には、焼畑の適地が多くあった。「地すべり」という自然現象によってできた地形である。
*1 松田壽男著『丹生の研究』。日本の水銀鉱山の2/3以上が中央構造線上に分布しており、水銀採掘集団の道でもあった。
*2 この中央構造線上には、関東の奥秩父、信州の遠山郷、紀伊の十津川郷、四国東部の剣山周辺、四国西部の石鎚山周辺、九州の宮崎県椎葉村など秘境と呼ばれる村が点在し、仁淀川町と同じような山岳の集落が多数存在する。「天界の村を歩く」という秀逸なサイトに詳しい(キーワード「天界の村を歩く」で検索)。
*3 大鹿村鹿塩の塩泉は海水とほぼ同じ塩分濃度であり、古くから「山塩」として製塩が行なわれていた。塩が湧き出る場所はいずれも中央構造線の東側。兵庫県有馬にも強い塩泉がある。徳島県の神山温泉のように強い塩分を含む温泉はいたるところに存在する。
*4 谷川健一『地名の研究』
*5 日本人は、原日本人系(縄文人)と渡来系の二重構造が続いているという。ミトコンドリアのDNA調査によれば、日本人固有のタイプは5%弱であるらしい(NHKスペシャル「日本人のルーツを探れ」より)
*6 日本では明治になるまで、24万ヘクタール以上の焼畑があり、椿山集落のように1950年代まで行なっていた山村も多かった。しかし、針葉樹の植林の増加とともに激減し、現在は宮崎県椎葉村、山形県鶴岡市などに限られている。
なお、現在、仁淀川町用居で「焼畑による山おこしの会」と愛媛大学とで、焼畑を実戦している。