第一章:イヤトムタの里


01

北海道斜里(しゃり)郡小清水(こしみず)町。小清水原生花園で名高いこの町は、網走市の東隣にある。


記録に残る限り、この地区の最初の住人はイヤトムタという名のアイヌ人であるらしい。


イヤトムタは、身長185cm、総髪長髪、腕の太さは普通人の2倍もあり、勇猛かつ怪力で、熊と組み打ち、あるいは射止めること百数十頭のおよんだといわれている。

「ある時、土産馬に乗って網走市丸万から帰宅の途中、親仔三頭連れの熊に出会った。

彼はすばやく馬から飛び降り、素手で親熊と組み討ち、やにあわに熊の口中に手を入れ、舌を引き抜かんとした時、指をかまれ、また、この時彼の背後から仔熊が頭にかみついた。

そのため頭に引き裂かれた傷痕数条が残り、右手親指はちぎれそうになり反対側に曲がって無残な手つきになった。

(中略)数日後、若者を行かせたところ、近くに舌を抜かれた大熊が斃(たお)れていた。」(小清水町『小清水を拓いた人々』より)イヤトムタは、草相撲が好きで、よく和人と交わり、入植者の世話をするなど親しまれていたという。

現在も、神浦という地区にイヤトムタの石碑が建っている。


伝説の人ではない。亡くなったのは、大正14年2月6日。大正といえば、昭和の直前。翌年、川端康成の『伊豆の踊子』が出版されている。


当時のこの地における雰囲気の一端がうかがい知れよう。


大正どころか昭和20年代、戦後の開拓移民団で網走地方に入植した人達の手記にもこうある。


「お風呂は下駄をはいているドラム缶、外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらの動きを伺っています。

(中略)卵をえるために飼ったニワトリは寒さのため卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、(中略)1間(ひとま)しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪(まき)を燃やして暖をとり、夜はおき火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵(こたつ)にして休みます。

朝起きると、布団の襟が凍っていたり、ふぶきの日には、布団の上にも雪が白く積もっています。もう少しましな家が欲しい、と皆さんに手伝ってもらい、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛ばされてしまったのです。

この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」(斜里女性史をつくる会『語り継ぐ女の歴史』より)。

補足すれば、「山を下りる」の山とは、現在美しい田園風景が広がる丘陵地、豊里地区(斜里町)のこと。


ちなみに、全巻女性の手記になる『語り継ぐ女の歴史※1』という本は簡易印刷ながら、平成9年までに五巻を出している。斜里町開拓当時の思いを語って生々しい。


同書から、当時の生活の様子をもう少し拾い読みしてみよう。


02

「家といっても、小さな拝(おがみ)小屋でした。

板、柾(まさ)、釘等なにもないので、やだちもの木の皮をむき、ぶどう蔓(つる)でゆわえて屋根にし、熊笹とか松の枝をぶどう蔓で巻いて壁にし、床は土間でした。」


「ランプもなく、作業用ガス燈が一つだけでしたから、海岸でトッカリ(アザラシ)捕り、その油を貝殻に入れて灯しました。」

「最初は着のみ着のままでしたから、銅釜も茶碗もなく、缶詰のかんを鍋に、ほたての貝殻を茶碗がわりに使いました。」

「海水は命の水でした。浜へ遊びに行く時は、それぞれが一升びんやがんtがんを持って行き、帰りには必ず海水をいっぱい入れて帰って来ました。塩、味噌、正油が手に入るまでは、この海水が唯一の調味料でした。」

(原文のまま、以上の記述はおもに戦後の開拓の話)


昭和の中期まで、縄文時代さながらの暮らしを強いられた開拓者もいたわけである。


さて後述するが、現在網走地方は田園景観の素晴らしさを誇る農村地帯。多くの観光客が訪れている。

また、日本一の生産量を誇る玉ねぎをはじめ、馬鈴薯(ばれいしょ)、小麦、甜菜(てんさい)、豆、トウモロコシ、アスパラガス等、大規模な畑作、北部では広大な牧草地を利用した酪農(らくのう)地帯でもある。

このように大規模農業という視点から見れば、日本で最も先進的な農村地帯であろう。


実に、このイヤトムタの里は、縄文から近代的農村まで他の府県が数千年かかって歩んできた道を、大目に見積もってわずか100年足らずで駆け抜けたことになる※2。


※1

江戸時代、北海道では農業(殊に稲作)はできないと思われていたらしい。また、北海道の松前藩も漁場貿易や北方経由の中国貿易を独占し、農業に力をいれなかった。


※2

断るまでもないが、この場合の「縄文」は比喩的表現。しかし、先住民であるアイヌは農耕民族というより縄文的色彩が濃いらしい。「アイヌの文化は、最近の学説せは、縄文文化の名残りといわれるようになった。たしかにアイヌの服装や住居は厳冬に不適きで、北方系とはいいにくい」「当時の北海道は稲作の不適地だったので、弥生人はここまで侵入してこなかった。北海道には、ながく縄文人が残った。かれらは縄文のゆたかな暮らしをつづけ、やがて鎌倉時代に変化する。”アイヌ文化”と呼ばれる新文化が登場したのである。」(司馬遼太郎『オホーツク街道』より)


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