第七章:景色の真相


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これらの事業は、まだ継続中のものも含めて、とりあえず大きな成果を収めてきた。


開拓当時を知る年配者の多くが「地獄から天国」という形容でその変わり様の大きさを表現する。この地域は、専業農家率が高く、1戸あたりの農業所得も北海道の平均をかなり上回っており、農業はほとんどの市町村の基幹産業だといえるまでの発展をみせた。


現在、網走地域の農業は、自然条件や土地所有形態に応じて斜網(しゃもう)、北見(きたみ)、東紋(とうもん)、西紋(せいもん)と4つの区域にわけられる。斜網地域は大規模畑作地帯。畑作3品(小麦、馬鈴薯(ばれいしょ)、甜菜(てんさい))を中心に機械化農業が進んでいる。北見地域は規模は小さいものの、水穂、畑作、酪農と多彩な農業が展開され、特にたまねぎ生産は全国一を誇る。東紋地域は土地条件には恵まれないが、酪農、肉牛を基幹に、薬用植物(しそやハッカ)などの栽培にも力を入れている。西紋地域は気候が冷涼、重粘土であることから一大酪農地帯が形成され、牧草地が突出している。また、家畜糞尿の有効利用においても先進地を目指している。いずれも、多大な試行錯誤とその犠牲に学んだ作物選択であろう。


2000年の歴史を持つ水田と比べると、日本における大規模型の畑作経営はまだ始まったばかりといいてもいいであろう※1。


周知のごとく日本の食糧自給率は低い。しかし、米は生産過剰。つまり、輸入のほとんどは畑作物が占めている。日本農業の課題は、畑地の高度利用体系を築き上げることだといって過言ではなかろう。わけても畑地かんがいは、地域用水としての水利用その他、大きな鍵を握っている※2。


水田を通じて形成された見事な水利化の体系を畑作に生かすことも可能であろう。


わが国の畑作面積は約230haであるが、現在のところ畑地かんがい面積は、わずかその5%に過ぎないのである。


酪農、肉牛、飼料作物、そして、麦、豆類、馬鈴薯(ばれいしょ)、玉ねぎ・・・、この地域の農業経営は、まさに今後の日本農業のパイロット的役割を果たしているといえるのではなかろうか。


さて、「地獄から天国」とはいささか大袈裟(おおげさ)な表現ながら、そう思えなくもない。


なず、この地方は空が澄みきって明るい。晴れの日が多く、日照時間は全国一長い。雄大な夕焼けが終わると息を呑むような満点の星空。冬は寒いが雪は少なく、また、梅雨もない。


斜里岳、雌阿寒岳(めあかんだけ)、雄阿寒岳(おあかんだけ)、羅臼岳(らうすだけ)といった秀峰、多くの湖。温泉が各所で噴出する。様々な原生花が咲き乱れ、流水とともに多くの観光客を集めている。


加えて、オホーツク海は魚影(ぎょえい)が濃い。鰊(にしん)に鮭(さけ)、ウニ、いくら、蟹(かに)、・・・豊かな海の幸。


そして、特筆すべきは、水田とともに世界に誇るべきこの地方独自の畑作景観。広大な草地、牧場や馬鈴薯畑(ばれしょばたけ)、整然と並ぶ防風林。とりわけ、馬鈴薯の花が大地一面を白く染め上げる姿や、小麦の黄、甜菜(てんさい)の緑が織りなすパッチワークのような景観は見事である。さらに、ヒマワリ、キカラシ等の緑肥(りょくひ)、チューリップ、芝ざくら、原生花・・・、ストライプ状に色を染めながら四季折々の花が一斉に開花する様は、さながら大地を飾る巨大なタペストリーを思わせる。


また、この地は考古学の宝庫でもある。マンモスハンター、石刃鏃(せきじんぞく)、オホーツク人、モヨロ人・・・、アイヌ人が住みつく前の遺跡が数多く発見されている。石器時代の昔から、北方民族にとっても、よほど住みやすいところだったに違いなかろう。


圧倒的な自然の営み、あらゆる辛酸を乗り越えてきた開拓者魂、そして、農業土木というわが国独自の技術体系。


それらの見事な結実が、この流水の押し寄せる厳しくも美しい里の、景色の真相ではあるまいか。


※1

畑作経営の低位を一変んさせたのは、昭和42年に全面通水した豊川用水の大規模畑地かんがい事業からであるといえよう。渥美半島は貧しい畑作地帯であったが、この事業によって水田よりも高収益をあげる農家が続出し、1戸あたりの農業取得はトップクラスの地域に変貌した。


※2

日本の場合、畑作物の根郡域が極端に浅い。アメリカでは、根郡域の標準の深さが180cmに対し、我が国のそれは50cm程度の場合が多く、アジア・モンスーン気候に対応した独自のかんがい技術が要求される。


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