第四章:水田への情熱


01

イネとは、いうまでもなくアジア熱帯原産の植物である※1。


日本の農業の発展は、稲作”北上”の歴史だといっても過言ではなかろう。


東北地方が米の主産地になったのはつい近年に過ぎない。


そして、現在、米の生産量日本一の座は、北の大地・北海道にある※2


なぜ日本人が米づくりに固執し、気候的限界を克服してまで稲作を北上させたのか。その問いに答えるのは容易ではない。農学の領域を越えて、古代天皇制や稲作文化論、富や貨幣の概念といった文化人類学、あるいは社会学の課題ともなっている。


しかし、個々の農家において、米は実に有用な作物であったことも大きな要因であろう。水田は連作障害もなく、極めて生産性が高い。主食であり貯蔵が可能といった利点に加え、副産物である稲ワラは、縄、ムシロ、ワラジ、ツマゴ、蓑(みの)、壁や扉の防寒材など農家の生活必需品であった。また、ワラ灰は、火鉢や油落とし、アク抜きその他、かつては生活のあらゆるところで使われていた。せめて稲ワラだけでも穫れたら、というのは北国の農家でも切実な願いであったに違いない。


また、水田は優れた土地利用形態であった。日本は国土が急峻(きゅうしゅん)なうえ、アジア・モンスーンという激しい気候条件にある。精緻(せいち)に張り巡らされた田の水利網は、洪水や土砂崩れを防ぎ、豊富な地下水をも涵養(かんよう)する。日本の国土を守ってきたのは、この水田の高度な土地利用であったといっても過言ではない。


もともと北海道の開拓は、ケプロンやクラークなど顧問団による欧米式農法によって進められた。にもかかわらず、この厳寒の地ですら水田は北上を続けた。何より日本の農民には、2000年におよぶ水田技術がある。むしろ当然のことだったともいえよう。


明治30年代、入植まもない北光社農場や屯田兵農場等がすでに挑戦している※3。


※表1は、初期における網走地方の作付け面積と収穫高。散散たる有様であるが、それでも諦(あきら)めていない。


品種改良や耕種法の改善、試作田の設置、試験・指導機関の執念とも思える努力がひたむきに続けられた。


そして、大正7年からの米価高騰。


水田への潜熱(せんねつ)が徐々に噴出していく。同9年の稲作品評会では、観衆の異様な興奮が見られたと記録にある。


翌年、水穂の作付け面積は一挙に8倍の400haに広がった。


その後、水田は爆発的な広がりをみせる。大正15年には140倍の7,000ha、昭和3年には12,000ha、収穫量も20万石を突破するにいたった。


そして、昭和4年、「北見米100万石計画」が発表される。この時点で水田面積は15,000ha、なお各市町村が計画している面積が30,000haあったという。


この流水の里で、地域内自給を達成し、あろうことか、供給地への転換が始まったのである。世界の農業史上、特筆すべき出来事ではなかろうか※4。


しかし、である。拡大もやや異常であったが、撤退もまた急激であった。


昭和6年、7年、10年、収穫皆無※5。連続して大凶作にみまわれる。家族の食糧もないような状態が数年続いた。


冷害の恐怖は骨髄(こつずい)に達した、と網走市史にある。


結局、昭和12年には、この地方だけで10,000ha近い水田が撤退した。


しかし、水田と畑とは、土壌の物理的、化学的、生物的環境が著しく異なるため、おいそれと転換が効かない。「肥えた畑も水田にしたため表土が流されて酸性の強い畑になり、麦を蒔いても半作位しか収穫できず、残ったのは多額の負債だけでした。※6」当時、元の畑に戻るまでに5年から10年を要した。多くの農家が、さらに北の、樺太(からふと)にまで移住した※7。


この間の貧苦と精神的打撃は、後世、とうてい我々の想像の及ぶところではなかろう。


※1

世界のコメの90%がアジア・モンスーン地帯で作られ、そのうち60%が東アジア、東南アジアである。


※2

米の生産量は1位・北海道865,000t、2位・新潟722,600t(94年~96年平均)の順である。


※3

屯田兵は、明治34年の秋から水田用の水路掘削工事を始めた。翌年の1月は、旭川で零下41度と気象観測史上最低気温を記録しているが、その中でも凍土を削る工事は続けられた。同じ頃、青森の八甲田山で有名な遭難事件が起きている。


※表1

02


※4

フランスの文化地理学者オギュスタン・ベルクが北海道の植民史をテーマとした著書のタイトルを『水田と流氷』としている。世界的に見て非常に特殊な例であり、その特殊さは開拓民のメンタリティによるというのが民の主張である。


※5

昭和8年はとれたが、全国的に豊作であったため値が暴落。いわゆる豊作貧乏の年となった。


※6

『語り継ぐ女の歴史』より。


※7

樺太移民団は戦後、地元に戻ろうにも土地はなく、さらに条件の悪い土地の開拓に辛酸をなめた。


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