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昨今、「グーグル・マップ」(インターネットの無償サービス)やパソコンの地図ソフトの驚異的ともいえる進化のおかげで、我々は居ながらにして世界のあらゆる場所を空から自在に眺めることができるようになった。いわば、人類は、天空からの視座を手に入れたことになる。

まずは、これらの地図ソフトを使って、九十九里平野を空からご覧になっていただきたい。

住宅地が、海岸線に平行に幾条もの細い筋をなしていることが確認できるであろう。

この特徴的な集落の形態は、実に縄文時代の中期、今からおよそ六千年前という果てしなく遠い昔の、気温に由来するという。


氷河期とは、地球の気温が下がり、陸地の多くが氷床で覆われていた時代を指す。これまで何回もやってきたらしい。地球の水の総量は変わらないので、陸地の氷床が増えれば、海の水が減る。したがって海面は下がる。

約2万年前と言われる最後の氷河期、海面は今より120mも低く、中国大陸と日本列島は陸で繋がっていた。その頃に人類やナウマンゾウは大陸からこの日本列島に渡ってきたとされている。


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【図1】縄文海進の推定
●は貝塚の位置

やがて氷河期は終わり、地球は徐々に暖かさを取り戻してゆく。そして、縄文時代の中期、地球の気温上昇はピークを迎える。八千年~六千年前は今より2、3度高かったらしい。気温が高くなれば北半球の広い範囲を覆っていた氷床が溶けて海面が上昇する。

その頃は、今の海面より3~5mほど高く、東京湾などは内陸に深く入り込んで、埼玉の見沼あたりまで海であったということが、貝塚の分布などから分かっている(図1)。


海面が上昇して、海岸線が内陸の奥まで進むことを海進と言い、逆に下がって、海岸線が退くことを海退と言う。

六千年前の海進は縄文海進と呼ばれ、今の地形やその土地の風土にも様々な影響を与えている。 この縄文海進の時代、九十九里平野はほぼ全域が海の底であった。


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【図2】九十九里平野の
地形

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【図3】九十九里平野の
潟湖

図2に示される牛久―東金崖線は、実際には40~50mの崖になっているが、これは縄文海進当時の海蝕崖だという。現在の屏風ヶ浦や大東岬を想像すればよい。太平洋の荒波が打ち寄せ、山をえぐって崖となった。

やがて、数千年におよぶ寒暖の繰り返しを経て、地球は現在の気温にまで下がり、海面は下降(海退)する。九十九里平野が陸地として姿を現すのは縄文も末期の頃。


しかし、この海退は平坦な九十九里平野にとんでもない置き土産を残した。おびただしい数の潟湖である(図3)。潟湖とは、むかし海であった場所が海退や土地の隆起により、取り残された湖のこと。

さらに徐々に陸地化されたため、海岸に平行に並ぶ8列もの砂丘群(微高地)を残した。

地図ソフトで確認できる筋状の住宅群は、この砂丘上に集落ができたことを示している。

今でこそ、この平野を流れる川は河川改修により流路が固定されているが、近世にいたるまでこれらの川は砂丘に阻まれて蛇行していた。大雨のたびに川は溢れ、あたりは湿地帯のようになっていたという。

また、上総台地は東側が牛久―東金崖線で崖のようにえぐられたため、このあたりが分水界となった。つまり、この台地に降った雨は大半が北西の印旛沼方面へ流れていくのである。

したがって、九十九里平野、特に両総用水の灌漑区域である栗山川と一宮川の間にある川は、普段は極めて流量が少ない。しかし、このエリアの水田面積は約2万haを超す広さ。


通常、水田が川から安定的流量を得るためには、その水田面積の10~20倍程度の流域面積が必要だとされている。とすれば2000~4000k㎡程度の流域が必要となるが、この4本の川の流域は全部合わせても400k㎡にも満たない(表参照)。

さらに、この地域は雨が少なく、年間平均雨量は1500mm前後と日本の平均値(約1700mm)より低い。

加えて、縄文晩期まで長い時代をかけて海岸線が後退していったため、平野のほぼ全域が海岸、すなわち砂浜となった。土壌は砂でできており、水田の水もちが悪い。せっかく少ない水を苦労して水田に入れても、すぐに地下に抜けてしまうのである。


過度の湿地帯と極端な水不足地帯。どう考えても矛盾する状況が、この平野の現実であった。降れば地獄、照っても地獄。龍神に祈るほか何ができたであろう。

こうした状況が、人がここで農業を始めた弥生時代から、つい近年、昭和の中期まで続いたのである。


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