1590年、徳川家康が関東へ入府。九十九里平野には家臣2人を配したが、江戸幕府を開くとすぐに転封し、この地のほとんどを旗本・直轄領とした。
彼はこの平野を鷹狩の場所とした。東金に御殿を建て、船橋を結ぶ約50kmの直線道路(現存)を造らせている。さらに、関東一とも言われたため池・雄蛇ヶ池を築造させるなど、この地に大きな関心を寄せていた。
後に大きく開発される利根川中下流部と同じように、この平野は、家康の眼にはいずれ稲穂が黄金色にたなびく広大な大平原として映っていたのかもしれない。
しかし、それが実現するのは、400年を待たねばならなかった。
台地の麓(鉄道沿いの市街地)の集落は最も成立が古く、縄文・弥生時代から生活の営みがあった。図1のDの湖沼群や台地の谷あいに水田を拓いてできた集落であろう。
『両総土地改良区史』によれば、次にできたのは、AとBの間にある2つの砂丘上の集落で、成立は中世の頃だという。
この集落の水田はBやCの潟湖から水を引いていた。この地は極めて平坦であるため、通常の新田のように川の上流から水路を引いてくることが難しい(高低差が足りない)。近くの湖沼から引いてくるしかなかった。
次がCの湖沼群の一部を干拓してできた麓から2列目の集落。中世末の成立らしい。
さらに、江戸中期になると、集落は残りの砂丘にも広がっていった。現在の家徳や広瀬(いずれも東金市)といった集落はBの潟湖を干拓してできたものである。
中流の潟湖が干拓されれば、そこから水を引いていた下流の古い集落は水源を失う。死活問題となった。また、上流の集落にとって、これらの湖沼は遊水池の役割を果たしていた。湖沼がなくなれば排水や雨水は行き場をなくし、上流の田は水はけの悪い水田と化してしまう。
干拓した農地も泥田であったり、ザル田(砂地で水が抜ける田)であったりと条件は劣悪であった。茂原市東の大湖沼地帯も、徳川初期に開発を試みたものの、あまりに生産力が低く、早々と見切りをつけている。
つまり、干拓が進めば進むほど、どの村にとっても条件が著しく低下してゆくという、どうにもならない矛盾が出てきたのである。
九十九里浜では、江戸時代からイワシの地引網漁業や塩の製造などで人口が増えていったのである。特に、イワシの肥料は需要が高く、紀州の漁師が出稼ぎに来た。やがて年間操業のため定着。すでに元禄以降、人口は昔の12倍となり、ある記録では九十九里浜には漁師の家が4万戸(約24万人)あり、大漁の日には「江戸の火事場に似たる事あり」と記されている(『経済要録』)。
しかし、イワシ漁には好不漁の周期がある。不漁が続けば、海沿いの潟湖を干拓して新田を造る漁師も現れる。また製塩も他の地に生産地を奪われて、燃料であった杉林が不要になり、水田となっていった。水はますます不足する。
この地域が旗本領や直轄領で占められていたことも災いした。土地は細かく分割統治され、平野全体を包括する水利体系など望むべくもなかった。上流・下流、右岸・左岸、古村・新村、あらゆる村々の利害が相反し、水争いは宿怨の様相を帯びてゆく。
図2は江戸から昭和時代までに起こった大きな水争いをまとめたものである。細かな争いまで数えれば、この数十倍となろう。
一方、両総用水のもうひとつの舞台である下総の佐原一帯はどうだったのであろう。
この地域は、中世を通して古代の「香取の海」そのままの沼沢地であったが、家康入府の頃、ある武士が洲の上に新田を開発し、その後、まわりの洲も開田されていったという。江戸湾へ注いでいた利根川は、江戸初期に始まる瀬替えにより香取の海に流れ込む。
以後、佐原は利根川水運の港町として千石船が行き交い、小江戸と呼ばれるほど栄えることになる。
この地もまた天領であり、武士のいない商人町として豪商による自治が行われていた。
もちろん、町の周囲には多くの水田があり、村もあった。江戸中期、河川工法の変化により、利根川は連続堤防で固定され、より直線化されることになる。この結果、利根川上流の大雨が佐原周辺に流れ着くのに5日かかったものが、2日となってしまった。以前は、大雨に見舞われても利根川の水位が上がる前に、佐原周辺の支流は利根川へ排水していた。
ところが、この河川改修により、大雨とほぼ同時に利根川の水位が上昇し、佐原周辺の川に逆流するようになったのである。大雨に加え、本流からの逆流が支流にあふれ、農地に大被害をもたらすという事態が3年に一度、繰り返されることになっていった。
自治は、港の機能を守る豪商の利益が優先され、排水に苦しむ農民の主張は軽視され続けたのである。