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明治治中期、鉄道の進展により舟運は衰退の道をたどり始め、佐原の港町も打撃をこうむる。舟運が衰えると河川は洪水を防ぐために堤防を高める工法に変わり、この地の排水はより困難となった。

さらに昭和の始め、利根川支流の河口に逆流を防ぐための水門が造られた。これにより利根川からの洪水を防ぐことは可能になったが、大須賀川など支流の水が行き場を失い周辺の農地にあふれ出るようになる。


昭和10年、大須賀川と小野川の水が氾濫、利根川沿岸の水田の半分が水をかぶり約700haが収穫ゼロ、400haが平年の半分以下という大水害が起こっている。水害は、この後も同13年、16年と続く。

今も佐原地方は早場米の産地だが、これは、梅雨時の冠水に備えて田植えを早める、また、台風の前に稲を刈るための自衛策であった。


一方、九十九里平野の農民も独特の自衛策を持っていた。この地の70%を占めたという天水田は「高田」「根田」「谷」に分けられていた。「高田」は高位置にあって排水もよく、牛馬耕も可能な良田。「根田」はそれより低い位置にあり、「高田」からの落ち水は使えるが、排水も悪く牛馬耕は無理な水田。そして「谷」はいわゆる底なし田。手では田植えができず、田舟に乗って、足の指で苗を植えるという光景も見られたらしい。

収穫高は、高田が1とすれば根田は0.8、谷は0.6に満たなかったが、日照りの年は高田より谷の方が収穫量が多くなった。

農民はどこも高田、根田、谷を持っており、いわば天候の変化に備えて保険の作用を持たせていたわけである。谷の面積は天水田全体の40%を占めたという。


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大正になって排水改良のため河川改修が行なわれた。ところが、この改修が用水不足をさらに激化させることになる。河川は断面を広げ、深く掘削されたため周辺の地下水が流れ込み、ザル田であった水田から水が抜けてしまうという事態となった。

また、明治以降、水源地であった八街ガ原の「下総開墾」により林の木が伐採され、水源地としての涵養機能が弱まったことも、水不足に拍車をかけることになった。


千葉の県民性は陽気で義理人情に熱いが、漁師の気質も混じって血の気が多いなどとも言われる。上総、下総とも大名不在で武士が少なく、いわゆる博徒の横行した地でもあった。特に利根川筋は、笹川・飯岡一家の決闘などで名高い。あるいは、坂東武士の遺伝子が濃いのか、水争いも半端ではなく、竹やり、日本刀、猟銃など物騒な武器まで登場する。

明治27年、栗山川の水をめぐって両岸の農民2百数十名が、手に鍬、鋤、竹やり、日本刀、仕込杖などを持ち、白装束にて激突、不幸にも2人の犠牲者を出している。また、昭和8年の干ばつでは、水利組合長が刀で切られるといった話も残っている。


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気質が荒っぽいというより、それだけ農民の暮らしが切羽詰っていたと言えよう。豊作の年でも、栗山川南部の農地は反収3俵程度、しかも3~5年に一度は水害か干ばつに襲われ、その窮乏ぶりは想像を超えていた。

明治35年の大風雨では収穫皆無、翌年も小石のようなヒョウが降り、あちこちの村の農作物が全滅。農民はほとんど出稼ぎに行き、村の人口は半減した。

昭和8年、九十九里平野は古老も経験したことのない大干ばつに見舞われる。「谷」の泥田さえ干からびて、夜逃げする者も続出。その翌年も、前年に劣らない干ばつが襲う。

そして、15年、記録に残る干ばつが発生。水争いする水すらなく、借金のかたに屋敷や田畑、あげくは子供まで売り渡さなければならないなど、農民の暮らしはここに窮まる。まさに九十九里平野は命の砂漠と化した。


この時、同じ平野の下総側(栗山川以北)では、昭和10年より県営大利根用水事業が始まっていた。利根川沿いの笹川(東庄町)からポンプで水をくみ上げ、約5kmにおよぶ丘を越えて九十九里平野に運ぶという大事業であった。15年の大干ばつでは利根川から平野へ通水し、干ばつの難を逃れている。

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十枝雄三

「私は龍神に命を捧げる」とその人が思ったかどうか、定かではない。当時の福岡村(現大網白里町)の村長・十枝雄三である。

この地には多くの義民と称される先駆者がいて、天災や時代の圧制から人々を救ってきた。雄蛇ヶ池を造った嶋田伊伯、悪徳役人を切った市東刑部左衛門、幕府の米倉を農民に解放して自刃した大多和右衛門……。

義民も、日本刀で水を争う農民も、気持ちに大差はない。どちらも村人を救うために命を賭ける。違いはその手法だけではなかろうか。


十枝自らは当時「小中池」「松之郷池」の築造に奔走していた。が、この惨状に際し、彼は思ったに相違ない。ため池では限られた村しか潤せない。すべての村を救わねば意味がない。自らの命に代えても……と。

利根川から水を引いてくるしか道はなかった。しかし、この地域は大利根用水区域に倍する広さ、距離は5倍も離れている。

「天馬空を翔けるような話」と誰もが笑った。仮に可能だとしても、その事業費の農民負担は莫大なものとなる。誰もが黙した。


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坂本斉一

一方、佐原でも、3年に一度の水害を絶滅すべく奮闘している男がいた。県会議員の坂本斉一である。「南の十枝、北の坂本」といわれた2人が、ここにまみえる。

一方は用水事業、かたや排水事業。これを一括りとして国に働きかける。奇抜にして合理的な発想であった。十枝村長も県議員に選出され、2人は生涯変わらぬ同志として、この大事業の実現を誓い合うことになる。


昭和16年、県は両総用水事業を決定。しかし、巨額の事業費や事業が長期にわたることを理由に、政府は国家事業として認めない。無理もない。当時は、昭和恐慌、満州事変に続き、太平洋戦争が始まったばかりであった。残念ながら、ここに十枝・坂本らの精力的な請願活動を書き記す紙面はない。興味ある方は『両総土地改良区史』をお読みいただきたい(事業誌の金字塔である)。「必死」という語の意味が実感できるであろう。

ともかくも、同18年、彼らの悲願が実り、「両総用水事業」は戦時下の食糧増産計画として採用、農地開発営団の事業と決定した。

遂に、天馬は空を翔け始めたのである。

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