昭和18年4月、佐原に事務所を設置し測量を開始、7月には起工式をあげ、いよいよ掘削の開始となった。しかし、人力による掘削と資材不足のため工事は停滞し、戦局の悪化とともに暗雲が立ち込める。
そこへ、終戦が重なった。以後、丸5年間、工事は事実上、完全に休止状態となったのである。
同21年6月、天皇陛下の行幸が契機となり、公共工事としての認可を得る。翌年、営団の廃止とともに、事業は農林省に引き継がれることとなった。
しかし、国は緊急の国営水利事業を31ヶ所で行なっており、予算の制約は厳しかった。
加えて、戦後の驚異的インフレが仇になる。昭和16年の段階で、県が国に示した事業費は約2,000万円であった。農林省が引き継いだ段階では約6億5,000万円。それが最終的には60億という額となるのである。
この事業の停止した5年間ほど、関係者にとって重苦しい時代はなかったであろう。地元では次第に悲観論が漂い始める。
そんな中で、アメリカの見返り資金の話が舞い込んだ。占領政策の円滑化を図るために日本とドイツに支給された経済復興の援助資金がインフラの整備にも割り当てられた。しかし、当然のことながら、この資金の獲得を狙って全国各地から多くの手が上がる。背水の陣であった。
3週間分の食料を携えての決死隊は十枝・坂本に加え、東金町長の能勢剛、両総事業所長の瀬戸忠武。最初はそのあまりに貧しい服装にGHQで門前払いをされたという。
関係各局への夜討ち朝駆けの訪問。有無を言わせぬ熱弁、決然たる信念。この4人のサムライは、当時のGHQで誰一人知らぬ者がいないと言われ、その猛攻ぶりは長く語り草になったらしい。
そして昭和25年8月。全国羨望の見返り資金、5億円援助の知らせを受け取る。天空に龍神をとらえた瞬間でもあった。工事は一気に全面着工となる。
ここで話は、一旦、満州へ飛ぶ。
この事業の延長約80kmという前代未聞の大水路は、日本の技術者としても初めての経験であり、この工事を可能にしたのは、満州帰りの技術者たちであった。
戦争前の日本は、台湾、朝鮮半島、満州と進出しており、外地の食糧増産のために国内とは比較にならないくらいスケールの大きな農業土木事業が行われていたという。
ある技術者は「満州にも見ない荒野」と驚いたという。当時の利根川河畔や九十九里平野の有様を伝えて余りあろう。
彼らはこうした大陸での豊富な経験を活かして、敗戦後の日本を自らの手で建て直すかのように必死な思いで働いたに相違ない。
途中、第20号トンネルのような難所*2にも遭遇したが、最新の技術も導入され、当時としては前例のない巨大プロジェクトとなった。当時の新聞は「工事現場はあたかも施工の競技会のようだ」と伝えている。
午前11時30分、「来た!」と叫ぶ声。水はコンクリート水路から染み出てくるような頼りなげな流れであったが、やがて水路を満々と満たしてゆく。紛れもなく利根の水であった。いつか「バンザイ!」の大合唱に代わる。試験が終わっても、農民は誰一人立ち去ることなく水の流れを見つめていたという。どんな想いが去来したのであろう……。
「両総用水の創始者」十枝雄三翁は、この通水を見ることなく前年に逝去。家財を潰してまでこの平野に生涯を捧げた人であった。
昭和40年。遂に両総用水の幹線水路が完成する。そして、支線水路の工事が全面終了したのは同48年。実に、30年という長い歳月が過ぎていた。
しかし、それは、およそ六千年におよぶこの地の地形的宿命に挑むという、男たちの限りなくロマンに満ちた挑戦でもあった。