「龍神を造った男たち」などと、いささか大袈裟なタイトルをつけてしまった。読者の中には、こう思われる方もいよう。――― たかだか水路1本ではないか。
まさに、たかだか水路1本である。たかだか1本の水路ができないがために、この平野に生きた人は、これだけの歴史を背負わされてきた。
水はあらゆる生命の源。水路とは、その生命の源を運ぶ道のことである。
昭和32年に着工された超大型プロジェクト・愛知用水も、たかだか1本の水路造りであった。
その愛知用水の関係者は何度かこの両総用水を視察に来ている。「日本の農業土木も大したものだ。これなら愛知用水もできるだろう」との確信を得て、地元の結束ができたらしい。地元のリーダーであった久野庄太郎も「我々は両総用水のゴールからスタートする」と決意を新たにしていたとのこと。
ところが、両総用水が通水試験を行なった年に始まった愛知用水はわずか5年で工事を終え、昭和36年には完成。追い越されてしまうことになる。
近代農業土木技術の勝利であった。愛知用水は、日本が初めて世界銀行からの借り入れを受け、初めてアメリカの大型土木機械や先進的工法を導入、初めて各省庁間が連携し、初めて官民一体となった公団方式で事業に臨むという「初めて」づくし、国をあげての大事業であった。世界銀行はこの事業を通して、終戦の復興期にあった日本の力を試したらしい。この後、同銀行は新幹線や首都高速道路の建設に積極的に投資しており、愛知用水は世界の奇跡といわれた日本の高度経済成長の起爆剤ともなった事業である。
以後、水利事業は急速に高度化し、豊川用水、群馬用水、香川用水、吉野川分水と総合開発のプロジェクトとなってゆく。
そして、それは同時に、疏水や農業土木が公共工事として匿名化してゆく過程でもあった。昔のように開削者の名前がつけられたり神社が建てられたりすることがなくなってゆく。十枝・坂本のような人材を得ずとも、正式な手続きを経て認可されれば、両総用水クラスの事業も可能となった。
……そして、たかだか水路1本という認識に代わってゆくのである。
それがいいことなのか、そうではないのか、今の私たちの時代は知らない。しかし、必ずや、後の世代がその判断を下すであろう。
この地は、両総用水が完成して以降、確かに飛躍的な発展を遂げている。しかし、ただ水路の恩恵だけで、この飛躍が成されたとは言えまい。
もとより、水路は龍神ではなかろう。それを龍神に祀り上げる地域の熱い想いこそが、建設後の隆盛をもたらすのではなかろうか。
この両総用水では、51ヶ所にトンネル、23ヶ所にサイホンが造られた。興味深いことに、そのほとんどの施設の入口と出口に、揮毫(銘盤)が刻まれている。
揮毫者は、農林大臣や国会議員を始め、農林省関係の官僚や技師、関係地域の市町村長、役場や土地改良区の職員、工事を担当した建設会社、工事担当者、さらには地元の詩人にいたるまで多士済済にわたっている。
それぞれの言葉には、農民、関係機関、技術者、作業者たち、この事業に携わった何万という無名の人々、そしてこの平野に生き死んでいった幾百万という先人の想いが託されている。
水路に人の想いが刻まれた最後の事業。龍神への祈りが込められた最後の疏水事業であったのかもしれない。