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ヨーロッパの畑作農村では、一人が生きていくために1.5haの農地が要るという。ところが日本の稲作は、1haあれば15人が養えた。それほど水田の生産力は高い。 約7割が急峻な山々で覆われた日本では、外国に比して一人あたりの農地は極めて少ない。水田の波及は歴史的必然であった。


言うまでもなく水田には多量の水が要る。日本の農地開発は川沿いの湿地帯になされた。川から水路 を築き(取水という)、自分達の田まで引いてくる。

しかし、川が増水すれば、真っ先に水路をつたって洪水が田を襲うことになる。洪水を恐れて高い土 手を築けば、今度は取水ができない。


加えて、日本はアジア・モンスーンという暴れ馬のような気候の下にある。

梅雨時に集中豪雨をもたらすかと思えば、一カ月も雨の降らない日が続く。


洪水が生き地獄なら、渇水もまた修羅場となった。

上流で水を取ってしまえば、下流の村は干上がる。左岸の村が多く取れば、右岸の村は黙ってはいない。水をめぐる村の対立は、上流下流、右岸左岸が入り乱れ、調整、談判、実力行使、時には死者を 出す陰惨な争いにまでエスカレートした。


「渋海川の水の一滴は血の一滴」。長岡の農民の間に伝わる口碑である。


さて、以上は、つい近年までとはいえ、過去のことである。戦前戦後を通した近代的な農業土木の成果により、新潟平野は全国でもトップの美田地帯に生まれ変わった。どぶね農業も姿を消し、水路は道路となり、三年に一度の大洪水からも解放された。“地図にない湖”と呼ばれた亀田郷一帯も住宅地と化し、むしろ昔の面影を探す方が難しくなった。新潟市は北陸一の大都市としての繁栄を誇っている。

しかし、新潟が“新しい潟[かた]”であることに変わりはない。私たちは、“潟”であることの持つ意味と、それゆえに近い将来必ず起きるであろう(他の平野にはない)課題を知っておく必要があるのではなかろうか。

そのことを明らかにするために、今一度、もっと古い時代の新潟に話を戻すことになる。


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