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さて、現在の新潟平野が日本一の穀倉地帯であることはすでに述べた。


しかし、このコンテンツの冒頭数頁の写真は、カメラが普及した時代の姿である。

いや、正確には昭和30年代の栗ノ木排水機場(現在は親松排水機場)、新井郷川排水機場などの運転開始をもって舟農業は姿を消し、洪水は昭和42年の大災害以来、大規模なものはなくなった。

つまり、現在のような穀倉地帯になったのは、戦後のわずか数十年の間に過ぎない。


戦後のわずか数十年間で、なぜ他の平野を凌駕して日本一になれたのか?


多くの人は、近代的な治水や農業土木の成果だと答えるであろう。

間違ってはいない。間違ってはいないが、正しくもない。


「土地を耕す物は最も価値多き市民である。彼等は最も強健であり、最も独立心が強く、最も徳に秀でている」第三代アメリカ大統領ジェファーソンの言葉である。


ただひたすら鍬[くわ]や鋤[すき]で葦のはえた沼に挑み、肩まで雪解け水につかりながら稲を植え、山を削り、川の流れを変え、つつが虫や菱草と闘いながら、舟で土を田に運び、時には隣村や侍とも戦いながら家族を守り、3年に1度の濁流によりそれら一切を失いながら、また一から泥の田に向かって歩み始める農民の、ほとんど「世界でも類がない」不屈の魂。

あるいは莫大な私財を使い果たしながら親子二代に渡って請願運動を続けた庄屋、自らの命と引き替えに水門を守った農民など、有名無名を問わぬ大勢の義民、篤志家。幾万という墓碑銘の上に築かれた人間の誇り。

そして、平野の随所に見られる近代技術を超える農民の工夫と知恵。

300年にわたり10万ヘクタールという一大河海を人間の手のみで農地に変えてきた新潟農民の不滅の偉業は、近代農業土木をはるかに超える地域の歴史的財産として、今も生きているはずである。


「農場のおもな生産物は人間である」ジョン・D・ヒル


農地が人間を育て、その人間がまた農地を育てる。

新潟平野の日本一の美田は、そのようにして生まれたのではなかろうか。


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