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この絵図の正保四年(1648年)とは、寛治図より約600年後、徳川三代将軍家光の時代。とりわけ驚かされるのは、信濃川、阿賀野川、加治川といった全国有数の流域を持つ河川が、新潟河口の一点に集中していることである。つまり、背後の広大な山脈に降った雨や雪は、すべてこの新潟平野に集まり、しかも川の出口は一か所しかなかったことになる。洪水のない年の方が不思議なほどである。

それでも、すでに川沿いに幾つもの村々がへばりつくように生じている。

「食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業」と作家が評した光景が日常化したのはこの頃からであろうか。


同じ時期、関東平野、濃尾平野をはじめ多くの大名が歴史に残る治水事業や新田開発を行っている。しかし、江戸時代、この地域は新発田藩、長岡藩、村上藩、幕府領と領地が入り乱れていた。藩が違えば他国も同然。陰惨な水をめぐる争いの歴史は、自然的要因ばかりではなかった。


もう一度、現在の新潟平野(第五章)をご覧いただきたい。

海岸沿いの小山を何キロも切り開いて、現在、それぞれ独立した河川として海へ流れている。そのほとんどが、江戸時代から明治にかけて行われた工事である。

対岸の土手が崩れて祝杯をあげるという村々の対立、各藩の睨み合い、「血の一滴」とまで言われた川の流れを変える工事がいかに凄まじい争いを招いたか想像に難しくない。

歴史的偉業とされる明治の大河津分水も、江戸時代、庄屋であった本間数右門の請願運動に始まり、田沢親子など幾人の篤農家の闘いを経て、日の目を見るまでに、200年近くを要している。その200年の間に工事や洪水で犠牲となった人々は、ほとんど数え切れないであろう。


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