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part.1 国土と人々 part.2 国土づくりの歴史 part.3 技術の歩み
米が社会の土台となり新田開発が進められた時代



 16世紀に入ると戦国大名は、領国の統一を図り、富国強兵策をこうじた。戦国期の分断された国家を統一しようとする戦国大名が現れ、織田信長、豊臣秀吉により全国は統一された。秀吉は、太閤検地によって荘園制度を完全に廃止し、新たな土地制度を整備した。また刀狩を行うなど士農工商の身分制度の確立を進めた。
 慶長8(1603)年には、徳川家康が江戸(東京)に幕府を開いた。幕藩体制とよばれる近世封建制度は、大名による土地支配と強固な身分制度によって社会を秩序だてるもので、米の生産量を基準として耕地に石高を割り当て、米を年貢の形で徴収することを経済的・財政的基盤とした。
 したがって、この体制では、米を確保することが政策の基本となった。その最も重要な手段として、耕地の拡大、すなわち新田開発が登場する。耕地の拡大は、地代率を引き上げることなく地代(年貢)収入を増大させることのできる方法として、熱心に推進された。
 また、城下町などの流通拠点としての都市、江戸を中心とする五街道や河川・海路など流通ルートの整備も行われた。当初は軍事と全国統制を目的とした街道も、300年の泰平の世に合った経済的な意義を主とするようになった。こうしたルートを通じ、米は、江戸へは城米として、大阪へは商品として運搬され、各地は特産物の取引とともに大きな経済圏内に組み込まれていった。
大阪の倉屋敷のにぎわい
大阪の倉屋敷のにぎわい
諸国から船で運ばれてきた米俵が積まれている。(『日本山海名物図会』より)



 戦国期から江戸期の新田開発は、北海道を除き、現在の耕地の形状をほぼ形づくるものであった。この時代の新田開発は、中世期以前には開発の手が入らなかった氾濫原・湖沼開析平野など、いっそう土地条件の不利な未墾地において行われた。内陸部の開田は、大規模な工事で大量の用水を導くことによって、それまでは水利の困難であった洪積台地や扇状地の中央部まで行われた。こうした大規模な新田開発の多くは東日本で行われ、土地開発の舞台は、東日本へと移っていった。一方、西日本では、有明海や児島湾など干潟を大規模に干拓することがはじまった。
 この時代には、古代から発展蓄積されてきた土木技術が、強固な封建体制のもとで大きな力となった。戦国期から、築城・道路建設・鉱山採掘などの軍事用途に使われた先進的な土木技術によって、小さな溜池を水路でつなぐ溜池群が造成され、また、大河川の上流部に取水口をつくり、長大な用水路を通じて台地上など用水の不足地に引水が可能になり、堤防も長大かつ堅固な連続堤を築くことができるようになった。こうした水利技術の変革により、水田の拡大と水田経営の安定がもたらされた。
 幕府や藩だけでなく農民も、進んで耕地を開墾し、溜池や用水路をつくって、新田開発に力を入れた。この結果、豊臣秀吉のころ約150万町歩(約150万ha)であった全国の耕地面積が、100年後の元禄のころには2倍近くの約300万町歩に増加した。この新田開発は、江戸中期・後期にも盛んに行われた。このように、新田開発はまさに平野の自然史を大きく変革し、それまでにない規模の国土開発時代となった。
石高増加の地域的分布 〈明治3(1870)年総石高…正保元(1644)年総石高〉
(注)旧陸奥国から分かれた、陸奥、磐城、岩代、陸前、陸中の5国については、正保のデータが不十分なため、その後の元禄郷帳のデータで計算した。そのため、実際はこれより更に高い値と思われる。



耕地開発進展の模式図
耕地開発進展の模式図 (左)西日本(右)東日本
中小河川の氾濫原や三角州が主体の西日本では早くから開発がはじまり、内湾に発達する干潟に進出せざるを得なかった。一方、大河川の扇状地と湿地や湖沼を残す大氾濫原が中心となる東日本では、台地と、一部内陸に残された未墾地が開発された。
 戦国期末から近世初期にかけて、大用水路を開削・整備・拡充するとともに大河川への取り組みが本格的にはじまった。武田信玄、加藤清正といった戦国大名や、熊澤蕃山、野中兼山といった藩政の要人にこうした技術に長じた者が出てくるのも、最大の関心事であった米の安定多収を政策の要とした結果であった。大規模な農業用水の開発・整備・拡充は、中部地方の扇状地河川を含めて東日本に多く、西日本では九州地方に多い。近世初期には大用水の新規開発は比較的少なく、すでに中世期に農業用水としての利用がはじまっていた扇状地を乱流する河川の整備をして、本格的に農業用水として利用できるよう、大洪水などを機会に形を整えるものが多い。
 一方、新たに開発された耕地は、もともとが低湿地、あるいは台地上であったため、洪水や早魃の被害を受けることが多く、治水対策が大きな社会的・政治的課題となってきた。特に、江戸中期以降、全国の低湿地のほとんどのところで洪水の氾濫が常習的に起こっていた。東日本では北上川下流部の仙北平野、利根川下流部の低湿地帯をはじめ、津軽・庄内・新潟などの日本海側に、西日本では淀川下流部、大和川、木曽川下流の輪中地帯で被害が大きく、これらの地域ではもはや新しい開田はもちろん、すでに開発された水田の維持も困難となり、抜本的な治水対策が要求された。治水事業は西日本において盛んに行われたが、幕府の行う治水事業は、侵略に備える軍事的な目的や、城下町の水防および舟運に重点があった。
 利根川と鬼怒川・常陸川とを結びつけた利根川の改修は、農業水利と治水を兼ねた部分改修を積み重ねながら、巧みに河道改修を進めたものである。利根川の改修は、関東平野の中央部の氾濫湿地帯の本格的な開拓をもたらした。また、この工事は、東関東と西関東を舟運により江戸の経済圏に結ぶことも目的としたものであるといわれている。治水工事が本格的に実施されるのは明治以降のことであり、低湿地の乾田化工事は、近代にはじまり戦後において完成するのである。
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