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part.1 国土と人々 part.2 国土づくりの歴史 part.3 技術の歩み
国力増強のために農業振興を行った時代



 明治元(1868)年の明治維新により、武家政治は終焉を告げた。明治政府は、欧米の国々に追いつくために、欧米の文化を取り入れ、殖産興業と富国強兵に力を注いだ。しかし、富国強兵の政策を進めるためには、政府の財政基盤を固める必要にせまられていた。このため明治4年には廃藩置県を行い、翌年には田畑売買禁止の解除など、土地に対する封建的な制度を廃止した。そのうえで、徴兵令・学制とならぶ三大改革として地租改正が行われた。地租改正は、明治6年から明治12年にかけて実施された。これは、全国の土地を測量し、地主や自作農に地券を交付し、土地の所有権を認めるとともに、土地の所有者に地価の3%を地租として納めさせるというものであった。地租改正により、土地所有者の生産意欲は向上し、民間資本による耕地の開発が積極的に開始された。
 一方、旧体制下の支配階級であった武士は完全に失業することになり、失業対策としての開墾が政府により推進された。明治初期の耕地開発は、失業士族の緊急開拓を契機に耕地の開発を近代国家の施策として展開し、これはさらに北海道の屯田開拓に引き継がれた。
 明治政府が誕生した後の明治2年、北海道札幌に開拓使が置かれた。これは、北辺警備と北海道の開発が主要なねらいであった。これを機に、各地から開拓者が新天地を求めて、北海道へ渡った。当時の北海道開拓では、広い植民区画と散居村落のうえで家畜を使った欧米式の畑作農業が進められた。しかし、当時の開拓農民の米に対する執念は強く、品種改良とともに、泥炭地や火山灰地など北海道特有の土地の改良と水利施設の建設が進み、さらに稲の栽培技術も改良された結果、爆発的な勢いで稲作が拡張していった。



 明治12年には、国の直轄事業による安積疏水事業(福島県)が着工され、明治用水事業(愛知県)もこの年にはじまっている。これらの事業によって、明治期の約40年間に、67万町歩(約67万ha)の開田開畑が行われ・耕地面積は急速に拡大していった。これは、明治維新に至る江戸期の約180年間で約152万町歩の増加をみたのに対して、約2倍の伸びを示している。このような耕地の開発や用排水の改良整備の急激な展開を可能にしたものは、従来の伝統的な農業土木の技術に加え、セメント・ポンプ・ダイナマイトに代表される欧米の最新土木技術の積極的な導入がある。
 またこの時期は、このような事業の全国的な実施に必要な「水利組合条令(明治23年)」、「耕地整理法(同32年)」、「水利組合法(同41年)」が制定されるなど、土地や農業水利の制度的な基礎が確立された時期でもあった。
 水害常襲地帯の耕地を水害から守り、また、同様な条件の土地をさらに開発していくためには、治水は必要欠くべからざるものである。明治期以降は、道路・鉄道などの陸上交通網が発達して、河川の舟運はおとろえた。このため河川工事の内容も、舟運のために河川の水位を一定に保たせる「低水工事」から、河川に堤防を築いて洪水を防ごうとする「高水工事」に移り変わっていった。
 やがて明治29年、全国的な大洪水を契機として、「河川法」、翌30年に「砂防法」と「森林法」が制定され、治水の制度が整備された。そして、淀川・利根川・信濃川・筑後川など日本の主要な14河川について、内務省が直轄して、またそれ以外の中小河川は、各府県が改修工事を行うことになった。なお、河川法施行に際し、すでに現存している農業用水などは法によって許可を受けたものとみなされ、近世以前から存在した農業用水の権利力怯的に認められた。
 こうして明治時代には、耕地の開発や改良整備の技術的・制度的基礎が両側面から体系化され、基盤の整備が近代国家の中心的施策として展開される基礎づくりがなされた。



明治の大規模開墾地点  明治末から大正にかけては、深刻な不況期に入った。しかし、人口は急激に増加し、明治年間で約2倍となった。このため、深刻な食糧不足となり、大正7(1918)年には米騒動が起こった。
 米騒動を契機に食糧自給と耕地拡大政策は積極的に推進され、食糧自給30年計画が立てられ、翌年には「開墾助成法」が制定された。この法は昭和4(1929)年に改正され、国営の開拓事業制度が確立されるとともに、旧開墾助成法では単に利子補給だった補助が、事業費の40%を補助することとなった。これは、国が、食糧増産を政策として重点的に実施するようになったことを意味している。大正末期から昭和初期にかけて国営開墾第1期計画が策定され、大規模な開墾・開拓事業が順次着工されていった。
 昭和4〜5年の世界大恐慌、そしてその後の農村恐慌のもとでの小作争議の激増にみられるように、農村は極度に疲弊して決定的な打撃を受けることとなった。そして、昭和7〜9年に、時局匡救事業が実施された。このような不況のもとでは、農業土木事業が食糧の増産という直接的な効果とともに、農村における雇用機会の創出による失業対策の側面をも有していることが重要であったのであろう。
 第2次世界大戦の直前のころには、戦時食糧増産への対応策として「農地開発法」が制定される。この体制下においては、農地開発の失業対策的な色彩はもはや影をひそめ、食糧増産という本来の目的が鮮明になった。

士族授産による松ヶ岡開墾 (山形県庄内地方)
 
松ヶ岡の開墾のようす
 
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