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坪刈帳

検見坪刈
検見坪刈
その年の収穫量を算定するため、1坪の稲を試し刈りする。(『徳川幕府県沿要略』より)

山梨県旧小池村坪刈帳にみる水稲収量の変遷
山梨県旧小池村坪刈帳にみる水稲収量の変遷
1世紀半以上の長期にわたる小池坪刈帳の統計分析によって得られた稲作生産力の展開と水稲品種の変遷。江戸時代における在来農法のもつ高生産力を十分に物語っている。
 「坪刈」は、1坪(3.3m2)に稲を刈り取り、これを基礎として全体の収量を推定するものである。江戸期には年貢高を決定する方法として用いられ、明治維新後は地租改正により、地主小作者間の小作料納入算定や供出量割当ての作柄調査に用いられた。現在は、作況調査としてのみ用いられている。
 山梨県北巨摩郡高根町小池地区では、文化6(1809)年から現在まで坪刈を継統させ、坪刈帳に毎年記帳している。坪刈帳の記帳は、江戸期と明治以降では異なっており、江戸期間では毛見により稲のみのりを上毛・中毛・下毛の3区分に分け、明治10(1877)年以降では地所を1等田から7等田に分類し各等田の坪刈が行われ1坪籾収量・品種・耕作者が記録されている。また、昭和に入ってからは、株数・1升籾重量も記録されている。
 この坪刈帳によって、近世・近代の稲作収量の推移がわかる。水稲の1坪収量は、現在までの約180年間で約2.5倍に増加している。昭和62(1987)年の10a当たり水稲収量が約600sであることから約180年前の文化年代には、約250kgの収穫があったものと推定される。
 このように、江戸期における水稲収量は決して低いものではなく、以後の改良品種や新しい栽培技術の導入で、水稲収量は漸増してきた。品種の選定でみると、明治中ごろまでは在来品種であり、昭和初期からは改良品種の導入があった。
 近年は、圃場整備が行われ、等田間の差はなくなり、収量差もなくなった。
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